オオカミ復活は日本人の責務

ここ数年、農山村地域において、シカやイノシシによる森林や農作物への被害が深刻化していることが、都会に生活している人たちの間にも広く知られるようになってきた。
それは我々日本オオカミ協会(JWA)などの地道なしかし継続的な警鐘活動により、マスコミもようやくその実態を報道するようになったからである。しかし、その根本原因や抜本的な対策となると、マスコミの不勉強さが浮き彫りになってくる。

つい最近(2012年6月17日)でも、東京新聞の日曜版(大図解シリーズ No.1048)に、シカとイノシシによる各都道府県別の被害額が取り上げられていた。
そして、その原因として、①農山村の過疎化、②猟師の高齢化による狩猟の減少、③農作物の放置と生ゴミの不始末や餌付け、④地球の温暖化の4つを指摘していたが、最大の原因であるオオカミを絶滅させたことには全く触れていない。また、食害の対策にしても、①里山に緩衝帯を設け、田畑との境界線上に柵を設置、②電気柵やトタンなどの防護柵で田畑を囲う、③皮はぎ防止の樹木のネット掛け、④捕獲や追い払いといった、これまでに既に試みられ、その効果の割には、設置や維持管理に莫大な費用と労力がかかり、地方自治体の財政をより一層悪化させきた弥縫(びほう)策しか指摘していない。

すでにいくつかの自治体は、根本的な改善策はオオカミの復活しかないことに気付き始めている。しかし、ワシントン条約の対象となっているオオカミの再導入には、農水省や環境省など国家機関がその重い腰を上げなければならないが、霞ヶ関の多くの官僚たちの認識はまだそこまでには至っていない。
また、かなりの日本人がいまだに明治時代のからの「赤頭巾ちゃん」症候群に洗脳されたままの状態にいる。

これら「認識障害」の日本人たちには、オオカミ再導入によるアメリカやドイツの自然の回復やオオカミとの共存の実例、またオオカミがヒトを襲うことは事実上ないこと、家畜への被害も少なくとも日本の場合には殆ど考えられず、たとえあったとしても、現在のシカやイノシシの被害とは比較にならないほどであること一つ一つ示しながら洗脳を解くしかないのかもしれない。
明治時代に日本からオオカミを絶滅させてしまった我々日本人だが、明治になってからの急速な近代化の課程の中で犯してしまった罪過のツケが今日になって回ってきた感がある。
「光ある所に影あり」のたとえの通り、西洋列強を模倣して近代国家に変貌したことで列強の植民地にならずに済み、日本語と日本文化を守ったことが明治の「光」としたら、他方、山地に囲まれた稲作民族の日本人が、牧畜民族の身勝手なオオカミ感をそのまま受け入れて、これまで「大口の真神」として素朴に崇めてきたオオカミを滅ぼしたのは明治の「光」から生じた「影」である。
アトラトルに代表される槍投器や弓矢と言った「飛び道具」の発明、さらにはオオカミからイヌを創り出したことで、人類はスーパーハンターになり、今や地球上に70億というとてつもない数に異常繁殖している。

「地球にやさしく」というが、究極の「地球にやさしい」形とは、人類がこの地球からいなくなることなのかもしれない。しかし、それは自己否定による究極の「自己矛盾」でもあろう。
人類が地球環境にとって有害であるのなら、その有害性を軽減させることが、現在の人類に課せられた責務だと考えている。そこには人間中心主義と言う意味でのヒューマニズムを越える新たな哲学が求められるであろう。

日本におけるオオカミの再導入(復活)もそのような一例であり、責務でもあるのではないだろうか。
(山﨑八九生)

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