五大湖地方でのオオカミ復活 « 一般社団法人日本オオカミ協会

五大湖地方でのオオカミ復活


米国五大湖地方、ミネソタ、ウイスコンシン、ミシガン三州でのオオカミ保護史:1950年代まで

■はじめに

北米と欧州でのオオカミの保護運動は1970年代以前に始まっていたのだが、日本人でこのことを知っている人は野生動物の専門家でも少ない。

欧州では1979年、ヨーロッパ共同体によってベルン協定が締結され、オオカミの保護は国家の責務となった。オオカミを含む野生動物と自然の保護の胎動は、1968年以来のローマクラブの活動に刺激された結果とも言われている。

米国では1973年絶滅危惧種法(Endangered Species Act)が制定され、米国全土におけるオオカミの保護が始まり、1995年と1996年、31頭のオオカミがカナダから運ばれてイエローストーン国立公園に放されたことを知っている人は少なくない。しかし、この時、同時に、イエローストーン国立公園以外の北部ロッキー山地、ワイオミング、モンタナ、アイダホ三州の広大な地域にさらに35頭が放されたのを知る人は多くない。これらのオオカミは十数年を経て1,600頭を超えるまでに増加し、さらに増え続けている。

北部ロッキーよりも早い時期からオオカミの復活が進んでいるのは五大湖西岸地域のミネソタ、ウイスコンシン、ミシガンといった湖岸三州である。この地方のオオカミは1970年代以降、徐々に増加し、とりわけ1990年代以降、この傾向は著しい。現在、個体数は4千頭以上に達している。 こうした成功の結果、2007年3月12日に連邦政府は、この地方のオオカミを絶滅危惧および危急種リストから外した地域でもある。

オオカミ研究者、アドライアン・ウェデベン(2008)は次のように述べている。湖岸地方のミネソタ州は合衆国南部48州の中で唯一オオカミが根絶されずに生き残った地域なのである。また、現代的意味で初めてオオカミの保護と研究が行われた地域でもある。そして、合衆国で初めて絶滅に瀕していたオオカミの復活が行われた地域でもある。ミネソタ、ウイスコンシン、ミシガン三州は、生態学的にも社会的にも合理的なオオカミ保護計画を発展させてきた地域であり、2007年3月12日に連邦政府が絶滅危惧および危急種リストからオオカミを除去した地域でもある。しかし、湖岸三州でのオオカミ管理は、係争がないわけではないが、州と連邦の協力的な雰囲気の中で、強力な調査、広汎な教育、政治的なリーダーシップが進められている。一方、北部ロッキーの事情はかなり異なるものである。せっかくのオオカミの回復にも関わらず、西部の牧場経営者の支援を受けたブッシュ政権が連邦政府の保護策を撤回する方向で動き始めたりした。これが西部の政治家たちの「反オオカミヒステリー症」に再び火をつけることとなった。アイダホ、ワイオミング、アラスカ州は揃ってオオカミ駆除に転じる姿勢をとり始めた。私たちが知りたいことは、湖岸三州と北部ロッキーは、同じ問題に関して、これが同じ国、同じ世紀の出来事かと思われるくらい違うのはどうしてなのか。湖岸三州の成功から学べるものと言ったら何なのかということなのである。

こうしたウェデベンの指摘と問いかけに従うならば、私たちも五大湖沿岸地方のオオカミ管理史を辿ることは無駄どころか、全米のオオカミの復活と保護を理解する上で欠かせないということになる。この小論では、カート・マイン(2009)の解説を中心にして、五大湖地方の1950年代までのオオカミ管理史の要点を紹介することにする。

これは去る2012年8月17日、渋谷区青山、国連大学内環境パートナーシッププラザでの一般社団法人日本オオカミ協会主催「月例公開セミナー第2回」での講義ノートである。

■米国でのオオカミ虐待

カート・マイン(2009)によれば、北米でのオオカミと原住民の関係は、ヨーロッパ系アメリカ人の殖民前1万年以上に遡る。原住民社会はオオカミや他の野生動物の個体数と分布に影響を及ぼしてきたが、その方法、地域、程度については正確にはわからない。 しかし、両者が長期間にわたって共存してきたことは事実であり、これは原住民の倫理が陸上の生物群集のなかに大型捕食者を十分に位置づけていたことを考えさせる。オオカミと他の野生動物は、土地だけでなく、人々の神話、物語、伝統の中で深い意味をもって生きてきた。この地域の原住民オジブエ族や他の種族にとって、オオカミと人間はまったく同じ精神社会に属し、結ばれていた。

古い絵画に見るヒトとオオカミ



このオオカミと人間との牧歌的関係はある日突然崩壊する。特に18世紀以降、ヨーロパ系アメリカ人の探検家、宣教師、罠師、定住者が大陸中部に移住してくるにつれて、狩猟採集をベースにした自然経済は衰退し、人間と土地との関係は大きく変化することになった。すなわち、人間を主人公とする人間領域が拡大し、土地の私有化が進み、森林伐採、採草地や農耕地の造成、野生動物の乱獲、湿地の干拓など、自然が乱開発されるに連れて、オオカミをはじめとした捕食者は絶滅に向かって追いやられることになった。とりわけオオカミ個体群は、自然生態系の全体的撹乱が広大な地理的範囲に広がるにつれて、活力を失い、消滅することになった。

五大湖沿岸地方の自然開発は産業振興につながり、これはヨーロッパ系移民社会に大きな富をもたらした。移民社会の自由な風潮と、これにもとづく資本主義の発展によって生み出された経済的ゆとりは、自由な学問文化の創造の基盤となった。具体的には、博物館、公立学校、大学、学会や歴史協会が設立され、教育と科学的調査研究の発展を促した。

これらの動きは、自然認識の深化と初期の自然保護活動にとっても重要な文化的土台となった。森林などの地域の自然資源が減少しても、こうした文化は発展し、湖岸地方の針葉樹林の伐採は、林業活動を刺激した。この動きは、セオドア・ルーズベルト大統領と信任が厚かったギフォード・ピンショーによって、1900年代初頭の広汎なコンサベーション(保全)運動へ発展した。森林をはじめとした自然資源の乱開発が続いていたミシガン、ウイスコンシン、ミネソタは、この運動の全国に先駆けてのパイオニア的位置に立った。

注意しなければならないことは、初期のコンサベーション運動は、人間中心で功利主義的な性格の強いものであったということである。これは、生態学が発展する以前の時代の、視野の狭い経済重視した伝統的発想から出ないものであった。捕食者の迫害は、前時代的な文化的伝統のひとつであった。それゆえに、オオカミなどの捕食者はもっぱら厄介な害獣とみられていた。

■1914年オオカミ虐殺始まる

1914年、ついにオオカミをはじめとする捕食者の駆除は国家政策となった。連邦議会は、合衆国生物調査局(the US Bureau of Biological Survey, BBS)に捕食者駆除に正式に取り組むよう指示した。これまでこの仕事は連邦森林官、牧野管理官、狩猟監督官の副業であった。オオカミと他の捕食者の駆除は、山火事鎮火、河川でのダム建設、プレーリーの耕耘は似たようなものとみなされていたのである。すなわち、すべての活動は、人間の利便のための資源利用の最大効率化と持続的利用をはかる上での合理的な自然管理の達成に役立てようとしたのである。偽科学がこの管理方法を理性的であると教えていたのである。1914年に始まった捕食者に対する一斉キャンペインは1920年代に加速した。BBS(合衆国生物調査局)は、西部の山地と草原から大型捕食者の残存個体群の除去事業に大きな成功を収めた。生物調査局が、以前から事前調査に力を入れずに、捕食者撲滅事業に専念してきたことは当然のことであった。

古典絵画に見るオオカミイメージ:狂人がオオカミになると言い伝えられていた



歴史学者のトーマス・ダンラプ(1988)が記している。「大型捕食者と彼らの餌動物に関する生態学は、何年もの間、研究者の意欲を削ぐ技術的な難問を抱えていた。オオカミは広く分布し、森林に覆われた広大な野生地帯に速やかに広がった。彼らを数えるのは手に負えない仕事でもあったし、他の種と環境との関係を調べることは同様に難しいことであった。」1920年代末の五大湖地域のオオカミに関する貧弱な科学はこうした段階にあった。研究出版物といえば、オオカミに関する記載的説明、その出現と根絶、地域固有の哺乳類目録にある記録、記録価値があるオオカミの行動に関する時折の奇談を収めた程度のものであった。「経済的哺乳類」への関心を反映して、BBS(合衆国野生生物局)が1907年に発行したバーノン・ベイリー著「北部森林オオカミによるシカ被害」があるが、当時も今も、科学的には殆ど無意味なものである。

同時期、野生動物管理史の中でもっとも重大な出来事のひとつに、グランドキャニオンの北縁に位置するカイバブ高原が上げられる。カイバブが1906年、国立狩猟動物保護区に指定された後、シカ類の狩猟は禁止され、家畜の放牧が規制された。シカ類を保護し増殖させるためである。そして生物調査局によって、この高原のオオカミ、マウンテンライオン、コヨーテ、ボブキャットの駆除が始まった。捕食者がシカを減らすのを防ぐためというのが目的であった。シカの群れは急増した。1920年代初めには、シカの超過剰による森林と草原の植生被害について、森林官による報告があいついだ。カイバブのシカの群れの爆発的増加は、野生動物生態学が発展する前から始まっていた。狩猟動物のセンサスと生息地評価に関する信頼できる技術は未発達であった時代の出来事であったが、専門的な資源管理者と大衆の間でも、カイバブの出来事は捕食者の役割を再考する出発点になった。

五大湖上流域の当時の森林官、野生動物管理官、土地所有者、スポーツマンにとって、オオカミの生態に関する科学的理解は大変な問題であった。オオカミは、複雑に互いに組み合わさったコンサベーション(自然保護)問題の中心的存在であった。過去に伐採された北部の森林が回復し始めるにつれて、シカの群れは急速に増加し、更新中の森林に広範囲に及ぶ被害を出し始めていた。こうした被害とシカ個体群の過密によるストレス兆候は、ウイスコンシンでは1930年代半ばにはすでに明らかであったし、1940年代初めにはさらにはっきりしたものになっていた。これらの自然調節の担い手であるべきオオカミは、ウイスコンシンでは北部の遠隔地のわずかな地域に残存するだけであった。オオカミの残存個体群は、一部、復活の兆しを示すものもあったが、依然として州の報奨金は継続していた。五大湖地方は、自然保護政策についての新しい考え方、新しいやり方、新たな係争など議論の中心地となった。この地域のオオカミはこの論争の震央であった。

■オオカミ保護へ:研究者の動向

社会・経済・文化的な条件が整うならば、自然開発の行き過ぎは必ず自然保護的な活動を生みだす。オオカミに関しても同様である。カート・マイン(2009)は次のように記している。

「五大湖沿岸地域でのヨーロッパ系アメリカ人の1800年代から1900年代半ばにかけての定住による環境変化はこの地域のオオカミをほぼ根絶させることになった。しかし、同じ時期、無軌道な資源開発に反対して、アメリカの自然保護運動は勃興した。この運動は、この地方の住民に、自然保護に関する広汎な科学、政治、思想、とりわけ生態学的で倫理的な枠組みの中で、オオカミを理解させることになった。」 こうして、自然生態系に固有な多様性、働き、相互関係に力点を置く新しい科学は、単純な功利主義的保全主義にもとづく意図に疑いを投げかけ始めた。そして、これは、少なくとも何人かの保護主義者が、オオカミなどの捕食者の役割と価値を再評価させるきっかけとなった。

捕食者駆除を進めるBBS(合衆国生物調査局)内外の研究者は、はじめから捕食者を専ら有害動物とみる者と、科学的な研究対象であると同時に有意義な動物とみる者に分かれていた。この緊張状態は、1920年代半ばになって、「アメリカ哺乳類学会の先覚的な会員」対「野生生物局の行政官と現場職員」の公開論争となって爆発した。1930年代に向けて、アメリカ哺乳類学会の年次会議はアメリカの生態系内の大型捕食者の撲滅に対する挑戦的な議論の場となった。

今日、オオカミの理解者として知られている米国の野生動物管理学のパイオニアのアルド・レオポルドでさえ、1931年刊行「中央北部各州における狩猟動物調査報告(1931)」の捕食者に関する章で、オオカミに関しては何も報告していない。レオポルドは、南西部合衆国森林局で働いていたことからも明らかなように、初めは情熱的な反捕食者的な立場にあったが、後になって大きく変心したことで知られている。彼は事務所に保管されている1920年代半ばのオオカミとコヨーテに関する記録を保存し始めた。こうして、彼は、捕食者政策に関する「アメリカ哺乳類学会」対「野生動物調査局」の対立に関するほとんどの主要な問題点を知った。彼はまた、多くの生物学者や森林官が、カイバブ高原の「滝が落下するように崩れ落ちる」生態学的な連鎖を理解しようとしていることを知った。1920年代末には、レオポルドは捕食者を受け入れることを一般に説き始めている。1929年、レオポルドは、専門的な野生動物管理学の発展史上の重要な文書である、新たなアメリカの狩猟動物政策に関する報告の主筆として、「捕食者を広大な地域で絶滅させてはならない」し、「貴重な捕食種をコントロールの対象としてはならない」とに主張している。

1931年刊のレオポルドの「狩猟動物調査」にはオオカミに関する記述は殆どないが、この著作の準備段階での野外調査には、彼の捕食者に対する考え方の発展的変化が見て取れる。1930年のミズーリでの調査後、次のように記している。「捕食者には警戒すべき点はない。捕食者コントロールに関する過去と現在のすべての考え方は適当でないようである。理性的な政策は未だ不明ではあるが、科学的な事実を土台にして構築されなければならない。」

野生動物管理学の領域が1930年代になって形を成し始めるにつれて、レオポルドと、彼の学生、仲間たち、同時代の人たちは、この分野の学問の土台を築く初期のパイオニアとなった。

■レオポルドと仲間たち

1930年代初めまでに、大学や研究機関の生物学者は捕食現象を深く調査し始めた。1929年、レオポルドの指導の下に、ウイスコンシン大学の卒業研究でパウル・エリントン(Paul Errington)がウズラ個体群の長期的研究を始めた。これはウズラの繁殖に及ぼす捕食者の影響だけでなく、これと関係する他の要因にも目を向けさせることになった。この問題に取り組む中で、エリントンは、餌動物個体群に及ぼす捕食者の破壊的効果に関するこれまでの長い間の想像上の仮定に疑いを持った。彼の研究は、捕食は餌動物個体群の運命を決める共時的に働く多くの要因のひとつに過ぎないことを示した。エリントンの研究は、たちまち、捕食に関する科学的な研究における礎石になった。そして、彼のこの問題に取り組む人生をかけた研究が始まった。

捕食者に関する政策的な議論と研究の進展は1930年代後半から1940年代初めにかけて加速し始めた。オラウス・ムーリエは1927年にワイオミング州のジャクソンホールで捕食者に関する研究、とりわけ、エルク個体群に及ぼすコヨーテによる捕食の影響についての研究に、BSS(合衆国野生生物調査局)の研究員として取り組んでいた。アドルフの充実した研究は、国立公園局内での彼の評価を汚すことになったが、オラウスも生物調査局の中で批判された。アドルフは最新の研究手法をフィールドに持ち出し、イエローストーンでの研究を完成した頃、マッキンレー山(デナリ)ではアラスカオオカミの生態学的調査が行われていた時期でもあった。1944年になって、ムーリエの研究が「マッキンレー山のオオカミ」として発表された。これは、今までになかった、オオカミの生態、生活史、行動に関する最新の調査であり、その発見は五大湖地方だけでなく、国中のオオカミの保護と復活に影響を及ぼした。レオポルドは、控えめながら、アドルフ・ムーリエの食うものと食われるものの関係に関する権威ある研究の公刊は、合理的なコンサベーションにとってきわめて重要なものであると述べている。

オラウス・ムーリエの発見は、BSSのスタッフの多くと異なる立場に彼をおくことになった。数年が経ち、オラウス・ムーリエは彼の職場の仕事である捕食者コントロール政策の頑固な批判者となった。「狩猟動物調査」報告を読んだ後、オラウス・ムーリエは、彼自身の野外研究についてレオポルドに次のように記している。「個人的には、捕食動物要因に強すぎると感じるほどの関心を払ってきた。・・・・・私は結局のところコヨーテは悪いやつだという事実を見つけられなかった。エルクに関する限り、他の問題と同じように、コヨーテは大きな要因ではないのである。」

レオポルドは、エリントン、ムーリエ兄弟、他の信頼できる情報提供者との私信のやり取りによって、捕食者に対する考え方をより明白にするのに必要な材料を得ることになった。レオポルドは、この新分野の最初の教科書となった「ゲームマネージメント(狩猟動物管理学)」(1933)の中でこれについてはっきりと述べている。捕食者に関する考察で、レオポルドは、この問題の複雑性を認識しつつ論争しているすべての当事者たちに、「公正な姿勢」と「心を開いた好奇心」を保つように訴えた。「捕食者についての実にくだらない考え方がたった一つだが存在する」とレオポルドは記している。そして、「この問題は、自分の権利を守ろうとするための奮起なのであり、疑念者も抗議者も皆臆病なだけである。」

レオポルドは、「ゲームマネジメント」(1933)の中で、オオカミに関していくつか触れているが、それは当時、しっかりした情報がわずかであったことを反映してやや実証性に欠けていた。彼は、オオカミの繁殖率、分布能力について記すとともに、中でも重要なことだが、オオカミによる通常の捕食がシカの分布に良い影響を持つことについても触れている。一層突っ込んだ研究の必要性を感じていたレオポルドは、捕食者の多くの考えられる影響はいまだに私たちが知らないままである、と記している。 捕食者に関するレオポルドの理解は、1930年代半ばに急速に深化したのである。

■学会の設立:ワイルドライフソサイティー

1937年のワイルドライフソサイティー(野生動物学会)の設立は、資源管理という専門領域内に野生動物生態学と野生動物管理学が出現したことを示す象徴的な出来事であった。この新たな分野は、基礎的な野生動物研究と州や政府の資源管理行政による実用主義的な事業の間のギャップに橋を架けるものであった。

■オルソンの研究

科学的事実の積み重ねによって構築される土台には、多くの調査研究を必要とする。この土台への続く貴重な貢献は、ミネソタ州スペリオル国有林のオオカミとコヨーテに関するシガード・オルソンの研究によってもたらされた。レオポルドと同じように、オルソンの捕食者に関する考えは、あからさまな敵意から擁護へと大きく変わっていた。オルソンのオオカミに対する毛嫌いは、彼が卒論研究に取り組むことを決めたときに変化し始めた。オルソンは、レオポルドの下で研究する機会を逃した後、イリノイ大学のビクター・シェルフォードに雇われた。シェルフォードは、自然地域の保護を先覚的に主張し、アメリカ動物学会と生物調査局との論争に時折加わったりするパイオニア的な動物生態学者であった。シェルフォードは、先例のない彼の研究をオルソンに教えた。

オルソンは、1930年12月、東北ミネソタでフィールド研究を開始した。オルソンは、北からミネソタに侵入し続けるオオカミの毒殺と罠掛けの結果に批判的であった。彼の論文「シンリンオオカミとコヨーテの生活史:捕食者コントロールについての研究」を完成するまでに、オルソンは駆除技術の妥当性と駆除プログラムの動機となっていた捕食者に関する伝統的な偏見に根ざした文化的固定観念に疑問を抱くようになっていた。

オルソンは1938年に「エコロジー誌」と「サイエンテフィック・マンスリー誌」に各一篇の論文を発表し、初めから終わりまで、野生地域の活力の指標としての大型捕食者の生態学的で美学的な重要性を強調した。

サイエンテフィック・マンスリー誌の論文の結論では、オルソンは、彼の若者時代のオオカミに対する嫌悪感を十分に払拭したことを示し、シェルフォードの群集生態学の専門用語を取り入れ、次のように記している。

「シンリンオオカミは野生の群集が全体を形作るのに欠かせない。その破壊は関係しあっている群集間の良い関係を破壊することになる。食うものと食われるものの間に存在する活力ある関係の衰退、すなわち相互依存の破壊は、野生の絵画に人工が入り込むことを意味する。」

オルソンの論文は、生態学的にも、自然保護擁護としても、シェルフォードの影響を受けている。彼の主張は、カヌー・カウントリーのスペリオル国有林を捕食者のサンクチュアリーにしようという前衛的な呼びかけであった。オルソンの発見と研究は、オオカミ保護を大衆に広く呼びかける最初の出版物であった。

エリントンの捕食に関する先駆的研究、ムーリエの当時支配的だった捕食者駆除論への挑戦、レオポルドの捕食者全般にわたる広汎な議論の再構築、オルソンのミネソタのオオカミに関する原著論文、これらすべては、1930年代の野生動物科学と野生動物政策の関係の変化を示す指標であった。

■レオポルドのオオカミ保護活動

レオポルドは、アメリカ哺乳類学会の陸上哺乳類保護委員会会長でコーネル大学の動物学者であったウイリアム・ハミルトンからの問い合わせに、この地域の火急の問題はオオカミ政策に関することであると、次のよう答えている。「私が知る限り、増えすぎのシカが林業、植生保護、それに住民の福祉に対する脅威になっているという事実にも関わらず、五大湖地方の全州はオオカミ根絶政策を続けている。そうした時代遅れの政策に反対すべきことを本気に説得し始めるべき時代になったのだと考える。」

レオポルドは、ミシガンとウイスコンシンの保護部局の仲間たちと接触し、シカの影響調査の地域での重要性について理解を深めていった。レオポルドはハミルトンに書いている。「時勢はそのとおりであろう。というのは、湖岸諸州は改善策を推奨することを妨害しようとしている。ハンターと農業関係者の権利にもとづく反対が、想像上のものかどうか、私にはわからない。」この時代、ウイスコンシンのシンリンオオカミの最後の生息地は森林地帯であった。高齢者のある者は、オオカミが森林伐採によって絶滅に向かっていること、そして最終的には木材とともに消滅してしまうと迷うことなく話したものであった。

ミシガン州保全局のA.M.ステブラーはハミルトンに宛てて記している。「殆ど例外なく、われわれはきわめて断定的な反対意見にいつも直面している。」ステブラーは1944年哺乳類学会誌に「ミシガンのオオカミの状態」を発表し、「ミシガンではオオカミは、実際、根絶されそうな危険な状況にある」と警告している。「ミシガンの森林地帯の大面積にわたる皆伐と居住地の拡大が、オオカミを半島北部へと退行させ、そこでも広い面積を持つ野生地域はわずかになっている。人間による原生生息地の改変は、いろいろな駆除の実施よりも、オオカミの分布と個体数を減らす上で効果的である。」ステブラーは次のように言明している。「長期的にみれば、捕食は必ずしも被食動物に害になるものではない。

こうした根強い社会的風潮に、弱小集団に過ぎない五大湖地方のオオカミ研究者と擁護者たちは第二次世界大戦中も悩まされた。これはシカ管理の感情的な問題と密接かつ堅固に絡み合っていた。ウイスコンシン保護委員会で働いていたレオポルドは、シカ猟期の延長とオオカミの賞金の増額という二つの事案に関する議論の場に関わっていた。別の場面では、レオポルドは、ウイスコンシンの生残オオカミに関する調査を支持するとともに、この情報を用いて、ウイスコンシンのシカと捕食者駆除政策の改善を進めようとしていた。これらの問題の周りに吹きまくる強い政治的な力の狭間で、レオポルドは委員会メンバーとして、1944年オオカミの賞金を引き上げに関して、また一年後にそれを元に戻す事案に投票するという無力な立場に立たされている彼自身を見出したのである。

ウイスコンシンの「シカ戦争」の真只中で、レオポルドは争いから身を引き、捕食者への想いを詩的で味わいある言葉で綴っている。1944年4月執筆の彼の有名なエッセー「山のように考える:Thinking like a mountain」の中で、若い時代にオオカミに対して責任を負うと考え始めてから蓄え続けた生態学的な教訓を辛らつに表現している。

「私たちは年老いた雌狼の目の中に荒々しい緑色の火が燃え尽きるのを見るのにようやく間に合った。私はそのとき気がついた。そしてずっと忘れることはない。それは、私が知らなかった何か新しいものがその目の中にあった。彼女だけが知っている何か。山だけが知っている何か―。私はその頃若かった。そして、引き金を引くことしか考えることができなかったのだ。私は、オオカミが減ればシカが増えるということ、オオカミがいなければハンターのパラダイスだとばかり考えていたからなのだ。だが、緑色の炎が死ぬのを見た後で、私は気がついた。オオカミも山もそんな考え方には賛成してくれないのだ。」(レオポルド、1949)

彼の没後に出版された「サンド郡の四季暦:A Sand County Almanac」の中で、レオポルドのエッセーは、世界中の読者に、捕食者と被食者、住民、土地、人間主義、それらの生態学的な結末についての新しい考え方である生態系中心主義を最終的に伝えることになった。

1940年代を通じて、レオポルドは新しい概念である「土地の健康」について考え続けて完成させることに努めた。これは、「土地の倫理」概念に通じる、彼の科学的研究の目標となった。この考えの中心は、生態学的共同体の健康機能に関して、捕食者の役割を理解することであった。レオポルドと考えを同じくする仲間たちにとって、五大湖地域のオオカミの運命は、何年か後に、この考えの重要な実際例となるものであった。

レオポルドの人物評価の確かさは、五大湖地方のオオカミと彼らのか細い運命によって作られた坩堝の中で混ぜ合わされて形をなした。「山のように考える」を起草した直後、レオポルドは、ヤングとゴールドマンの「北米のオオカミ」の書評で、インクを惜しむことなく単刀直入な批判を行っている。すなわち、保護という立場からは、彼らの著した「北米のオオカミ」は実に失望するものであるとレオポルドは記している。そして、彼は、結論に至る文章の中で次のように述べている。「合衆国にさえ、オオカミが殆ど邪魔されることなく生存し続けることができると感じられる、十分な大きさの地域は何ヶ所も残っていない。そのとおりである。まともな考えを持った生態学者なら誰でもそのように考える。しかし、オオカミ根絶事業を達成する前に、こうした考えを実行する責任を合衆国魚類・野生動物局は負ってはいないのか。どこにそうした場所があるのか。まともな生態学者だったら誰でも、それらが広大な国立公園と野生地域、たとえばイエローストーンと隣接国有林あたりだろうということに賛成することだろう。」

レオポルドはさらに厳しく問いかける。「イエローストーンのオオカミは1916年に根絶させられた。以来、この地域はオオカミがいないままになっている。ワイオミングとモンタナの放牧地帯からオオカミを根絶させるにあたり、やるべき仕事として、有害ではない何頭かのオオカミをイエローストーンに復活させようとしなかったのはなぜなのか?」

レオポルドの評論は、オオカミの復活に関する初期の提案にいつも引用されている。そうした提案はひとつだけではない。レオポルドは1944年8月、スペリオル湖のロイアル島へのオオカミ導入を国立公園局長官、ニュートン・ドルーリーに提案している。ドルーリーは、五大湖地方のオオカミの適当な個体群管理にとって有害である可能性から、社会的な反対があるかもしれないという理由でこの考えを取り上げようとしなかった。

しかし、その後数年、レオポルドはシカゴを拠点にしている国立公園局の研究者のビクター・キャハレインとともにロイアル島へのオオカミ導入の可能性について議論し続けた。レオポルドとキャハレインは、他の国立公園での大型捕食者の生息についての考えと情報を分かち合った。1946年9月、キャハレインは、新しいオオカミの足跡がイエローストーンで発見されたというニュースを知らされた。おそらくこの出来事とレオポルドとの文通に刺激されて、キャハレインはこの年、「生きている野生Living Wilderness」(ウイルダネス協会機関誌)に「私たちの大型肉食獣を救おう」と名づけた原稿を発表した。同時に、ロイアル島へオオカミを移住させる構想は、レオポルドとキャハレインによって密かに練り続けられた。1947年、キャハレインはレオポルドが相談役としてロイアル島を訪問する機会を作ったが、レオポルドは健康上の理由からこれを延期せざるを得なかった。

レオポルドの「サンド郡の四季歴」



レオポルドは、1948年4月、サンド郡の農場の草原の逃げ火と戦っている際、心臓発作を起こしてこの世を去った。しかし、実際、オオカミの研究と保護へのレオポルドの影響は、初期段階のものと考えられている。「サンド郡の四季暦」は1949年に刊行された。

■1950年代のオオカミ研究

レオポルドの学生のアントン・デボスは、1949年と1950年に五大湖地方のオオカミに関する論文を発表している。トンプソンは1950年に学位論文を完成し、「ウイスコンシンのシンリンオオカミの移動、分布、食性」に関する報告をジャーナル・オブ・マーマロジーに公表した。彼の発見と考察はミシガンの1944年のステブラーの報告と似ている。しかし、トンプソンの説は、土地利用と道路のない大面積の森林の維持の必要性を強調する点で異なる。「一定の土地利用とそれらの関係は、現在の大部分の五大湖地方でのこの種の危険な状態を示すものである」とトンプソンは記している。彼は「野生生息地として少なくとも150平方マイル(384平方km)を必要」とし、「シンリンオオカミは結局はウイスコンシンから絶滅するだろう」と推定している。

1940年代の五大湖オオカミに関する物語での最も重要な展開は、会議室、行政の事務所、学会という閉鎖環境からかけ離れたところで生じたことである。1948-1949年冬、シンリンオオカミの冒険的な一群が、ミネソタの北岸を離れ、スペリオル湖の氷上を渡ってロイアル島の硬い岩の岸にたどり着いた。ロイアル島にオオカミを導入することを考えたレオポルドとキャハレーンの計画は結局必要ではなくなった。ロイアル島へのオオカミの移住によって、彼ら自身の生態と保護の歴史に新しい広大な一章を開いたのである。オオカミが移住したロイアル島は、次世代のオオカミ研究者、ミルト・ステンランド、ヂュワード・アレン、デイヴィド・ミッチ、これらの研究者に倣う人たちの主要な実験室となった。事実、すべてのことはミネソタの生残オオカミ、その中の小さな一群が決断した氷結した湖上を渡るディスパーザル(分散)に続いて起きたのだ。

ダン・トンプソンは彼の学位論文の終わりに、ウイスコンシン北部に好適なオオカミの生息地を維持するためには、生息地の細片化防止、防火帯に沿った森林への進入制限、田園地域区分規則の遵守といった、いくつかの段階をおく必要があることを提案している。1952年当時、ウイスコンシンのオオカミ賞金制度はまだ残存していた。トンプソンは次のように記している。「ウイスコンシンでシンリンオオカミを存続させるためには何らかの法的保護が必要な段階に来ている。だが、現在の世論はこうした保護思想の拡大を受け入れる状態ではない。」五大湖地方の捕食とオオカミに関する新たな疑問を発した、トンプソンと前任者たち、その同僚、すなわち、エリントン、オラウス・ムーリエ、アドルフ・ムーリエ、レオポルド、オルソン、キャハレーン、フィーニー、そして、ステブラーは科学的な基礎を築くのに貢献したのである。

(2012年8月28日 丸山直樹)

■参考情報

1967年 ミネソタ州の生残オオカミ700頭(大部分はスペリオル国有林内生息)、連邦絶滅危惧種リスト(the federal Endangered Species List)に登録

■参考文献

Preface by A.P. Wydeven :In Adrin P. Wydeven, T.R.Van Deelen, and E.J.Heske (2009) “Recovery of Grey Wolves in the Great Lakes Region of the United States” Springer, VII-VIII.

Foreword by B. Babbit: In ditto, ix-xi.

Curt Meine (2009) Early wolf research and conservation in the Great Lakes Region. In ditto, 1-14.



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