書評 「狼が語る: ネバー・クライ・ウルフ」 

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書評「狼が語る: ネバー・クライ・ウルフ
ファーリー・モウェット著 小林正佳訳 築地書館 2014年

これは今から50年前に出版された「Never Cry Wolf(1963)」の新訳である。この作品は発表当初から大反響を呼び、世界20か国語に翻訳され、日本でも1977年に『狼よ、なげくな』(ファーレイ・モウワット著、小原秀雄訳、紀伊國屋書店)の邦題で出版されたので、お読みになったことがある方も多いと思う。ただしもう絶版になっており、図書館でも、発行年の古さのためか自由に手にとれる開架ではなく書庫に収蔵されている場合が多いようだ。1983年にはウォルト・ディズニー・ピクチャーズが第1作として実写映画化し、私が本作を知ったのもそれが最初だったが、ビデオ化はされたもののDVDにはなっておらず、やはり一般に目にすることは難しくなっている。
JWA活動をしていると、時たま(私はオオカミに関心がありますよ)との好意をこめて「オオカミって実はネズミを食べるんですよね?」と話しかけられることがあるが、そのネタ元が本作だ。何となくこんな内容・・・というイメージだけが先行しがちだったので、今回の刊行で再び全文を読めるようになったのは嬉しいことだ。また、半世紀を経たことで、本作を一歩ひいた冷静な目で見ることができるようにもなった。現在の日本で、本作を再び手にすることの意義を考えてみたい。

そもそも日本では、本作が賛否の大激論をまきおこした作品であるという点にはさほど注意がはらわれていないようだ。あたかも、世代を問わず楽しめる「若手研究者がつづった科学エッセイ」のように、素直に読まれている気がする。
欧米では本作は、「オオカミの群れの社会生態の報告書というより、いちじるしく擬人化されたお昼のメロドラマ」(ギャリ―・マーヴィン『オオカミ 迫害から復権へ』南部成美訳、白水社、2014年、P158)と評されており、本作より先の1944年に発表されたアドルフ・ムーリー著『マッキンレー山のオオカミ』(上下巻、奥崎政美訳、思索社、昭和50年)に内容が酷似していることなどから、ダグラス・ピムロット(著者が暮らすカナダで、最も尊敬されているオオカミ研究者の一人)は本作について、以下のように述べている「これは想像力とファンタジーと、他の科学者により既に刊行されていた研究データの混合物だ。<中略> そしてモウェットの素晴らしい筆力はとても評価するものの、この作品がノンフィクションとして世に出たことは実に残念だ。事実に基づいたフィクションとして発表されていたなら、もっと楽しめただろうに」(ハンク・フィッシャー『Wolf Wars』Falcon Press Publishing Co.,Inc. 1995年、P38から引用)。

なぜ著者は本作を、フィクション、つまり自伝的小説として発表しなかったのだろう。目立たないところに他の研究者らへの謝辞を入れておけば、著者は「聖人かペテン師か、真正なナチュラリストか大ぼら吹きか」(本書、訳者あとがき)などという大騒動に巻き込まれずに済んだのではないか。これはかつての考古学界のゴッドハンド事件のような、著者の浅はかな虚栄心に由来する問題なのだろうか。いや、それにもまして気になるのが、なぜ日本ではフィクションか否かの大激論がおこらず、関心も集めないのだろうか。

日本でオオカミ再導入についての対話集会などを開催すると、生態学的な話を聞いてほぼオオカミ賛成のお気持ちになってくれた聴衆が、それまでの対話で心もほぐれたせいかポロッと本音をもらしてくれることがある。「オオカミが必要だということは頭では分かりました、安全な動物であることも分かりました。でもどうしても不安がぬぐえません。童話や伝承でオオカミが悪い動物と描かれるのは、やはりそれなりの理由があってのことでは?」こういう時は、更に科学的な情報をお伝えしてもあまり変化はない。むしろ、オオカミを悪役とする物語がどんな時代背景や社会において、どういう目的で書かれたのかをお話しすると、すぐに理解してもらえる。「なるほど。問題は、人間側の受け止め方とその社会体制の方なのですね。オオカミという動物そのものの問題ではないんですね」と。そして今度こそ本当にオオカミ賛成派に加わってくれる。
本作も同じだ。この作品がどういう時代背景や社会の中で、何が意図されて書かれたのか、その結果何がもたらされたのか、それを知らなければ評価はできない。

そもそも大衆にとってオオカミとは、野蛮で残忍な、聖書や童話で悪の化身として描かれる動物であったし、ヨーロッパ人が入植して以降、北米大陸では、シカ類やバイソンを食糧としてよりはむしろ金と権力のために大乱獲した人々にとって、また自然と親しむ手段として狩猟を愛好する人(例えば自然派として有名なセオドア・ルーズベルト大統領もそうだ)にとって、シカ類などの「価値ある動物」を獲物とするオオカミは一貫して邪魔者であり続けた。自然相手の牧場経営者にとっては、天候や疫病や相場など数ある経営上のリスクのうち、オオカミが唯一、駆除という名の仇討ちが可能な相手だった。オオカミを憎むそれらの人々が「異常すぎるほど執拗に」(バリー・ホルスタン・ロペス『オオカミと人間』中村妙子・岩原明子訳、草思社、1984年、P170 )それぞれオオカミを殺した。それだけでなく、社会的に強い発言力をもっていた狩猟愛好者やその関連業者、牧牛業組合などがオオカミ駆除を政府に強く要求し、逆らえない政府は、1914年から1931年まで国の予算を投じて国立公園や国有林でオオカミやピューマ、コヨーテなどの捕食動物の駆除事業を行なった。その結果、1950年頃までにアラスカとミネソタ州のごく一部、そしてカナダを除く北米大陸のほとんどでオオカミを根絶しながら、なおも人々の多くはオオカミを「殺されるべき動物」と考えており、絶滅危惧種法で合衆国政府が責任をもって保護することが決まる1973年まで、その先あと10年も待たねばならない。本作が世に出た1963年は、そんな時期であった。
ムーリーのマッキンレーでのオオカミ研究から十数年、オオカミや自然についてのすぐれた研究成果は蓄積されつつあったものの、それらはまだ研究者など一部の人々のものにとどまっていた。第二次大戦からようやく落ち着いてきた世間には「エコなライフ・スタイル」などという発想は広まっておらず、「生態系のつながり」や「自然のバランス」という視点も乏しかった。
そんな逆境の中でオオカミという動物の魅力を広く一般に伝え、その存在の大切さを語ろうとしたのが本作だ。オオカミ保護の進展を阻んでいるものの正体を白日の下にさらそうとしたのも本来の趣旨だったと、著者は出版30周年の1993年に書いた「何がかわっただろう」という短い章(本書P218 -223)の冒頭で述べている。1977年本には当然のことながら収録されていないこの短い章が今回の新訳本の注目点であり、本作をどう読むべきかの方向性を示してくれる。

当時手に入れることのできた科学的データは限られていたし、オオカミの社会構造や生態も充分に解明されているとはいえなかった。それらが解明されている現代の目から見れば、アルバートは高い確率で子オオカミたちの「おじさん」ではなく「お兄さん」だろうし、ネズミは単なる空腹しのぎのおやつだったろうと思われる。これら多少の齟齬は、本作がフィクションであれば「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」で、そう問題視するほどのことではなかったかもしれない。しかし、フィクションかもしれないことを格好の反論・攻撃材料にしたのが、前述の「オオカミを憎む社会的な力の強い人たち」だった。よって、オオカミを擁護し、カリブーを本当に追いつめているのは人間の方なのだと強く印象づけるためには、あくまでこれはフィクションではないと主張する必要があった、という事情なのだろうと思われる。
そうなると困ってしまうのはオオカミ研究者の側だ。事実と異なることを認めるわけにはいかないため、本作を否定せざるを得ない。著者も、本作がオオカミの研究報告としては評価されないだろうことを認識しており、自分は学術面の権威の評価など意に介さないと意思表示した。それが、本作で皮肉たっぷりに面白おかしく揶揄されている、植生調査や糞分析といった基礎研究の部分だ。著者は科学者ではなく作家であり、環境保護運動家なのである。訳者あとがきに挙げられていたような激しい議論がまきおこることさえも、人々の耳目をオオカミに惹きつけることができるという意味で、もしかしたら《環境保護運動家モウェット》の意図するところだったのかもしれない。

いずれにしろ、そういうマイナス面を差し引いても、本作がオオカミにとって重要な作品なのは間違いないことだ。オオカミ研究の第一人者デイヴィッド・ミッチも、本作を事実と思ってはいけないと警告しつつ「これは、オオカミの窮状に無関心な大衆を揺り起こしてくれる」(L. David Mech 『The Wolf :The Ecology and Behavior of an Endangered Species』1970年、p340:引用元ギャリー・マーヴィン『オオカミ』P161)と評価している。マザー・テレサを引用するまでもなく「愛の反対語は憎しみではなく無関心」だ。人は悪い動物が苦しんでいても何も感じないが、愛すべきオオカミたちの苦しみには無関心ではいられなくなる。
本作は、大衆の従来のオオカミ観を180度転換した。本作を契機に、人々のオオカミを見る目が確実に変わったのだ。それまで何百年にもわたり『赤頭巾ちゃん』などの童話や伝承が築きあげてきた「オオカミ=悪いやつ」の世評に杭を打ち込み、「オオカミ=愛すべき存在」の心柱を打ち立てた、記念碑的作品なのである。
その後、世の中は、1962年のレイチェル・カーソン『沈黙の春』やアルド・レオポルドの再評価ともあいまって、ニューエイジ・ムーヴメントへ、環境の世紀へと動いてゆく。その入り口にあって本作は、大衆に世界の新しい観方を提示する、いわば「環境の時代の幕開けを告げる創世神話」であり、カレン・ジョーンズ(Canadian Historical Reviw、LXXXIV/1、2003年、P65-93、なお引用元ギャリー・マーヴィン『オオカミ』P161)の分析によれば、旧態依然な社会体制や時の権威・常識に立ち向かう者の物語(ナラティヴ)としても広く支持されたという面があるようだ。

以来50年。オオカミに関するさまざまな科学的知見が蓄積され、アメリカでは絶滅危惧種法が成立し、再導入が実行され、それが自然および人間社会に与えた影響も徐々に目に見えつつある。人々の意識の変化を反映するかのように、ヨーロッパ各国ではオオカミが戻りつつある。そんな21世紀にあって、日本に住む私たちは本作からどんなメッセージを受け取ればよいだろうか。

日本で「オオカミがシカを減らさない」と主張するのは、「オオカミなんか、シカ害対策の役に立たない」と道具的不要論を展開する反オオカミ派であるが、北米で「シカを減らさない」と主張するのはオオカミ賛成派の方で、「オオカミはスポーツ・ハンティングの邪魔者ではない、そんなに悪いやつじゃない」という意味だ。そのあたりにも気を配って物事をとらえなくてはならない。本作の中心となる論争は、日本ではあまりなじみがない、社会的に強い力をもつスポーツ・ハンティング・ロビイストとの確執であるように読めるかもしれない。だから日本では真偽の大激論が起りようもなかったわけだが、著者の言わんとする本質の部分については、まったくのところ日本も共通である。
1977年本の「なげくな」という邦題は、オオカミに寄せる共感的な温かさが伝わり、また、その情感に違和感をもたない日本人の自然観・動物観をよく反映しているので、私はとても気に入っている。長年馴染んできた題名でもあり、捨てがたい。だがこの題名の元々の意図は、やはり、今回の訳者が述べている通り『クライ・ウルフ(「オオカミだぁ」と叫ぶこと)を止めよ!』であろう。
現実には起こってもいない場面を設定し、ことさらにオオカミの危険性を騒ぎ立て、周囲の情勢や人々を自分に有利なように動かそうとする。…この状況、日本のどこかで見聞きしたご記憶はないだろうか?

都合の悪いことはすべて物言わぬ自然や動物(オオカミやシカ)、そして立場の弱い人々や地域社会に押しつけて、自らの立場と権力は守り続ける官僚。政府機関の「飛び道具として雇われた生物学者」(本書P222)。先入観と噂に感情的に反応する、とりわけ声の大きい一部の人々。胸の奥底では生態系におけるオオカミの必要性を実感しながら、社会的反発を恐れ、あるいはその困難さを厭い、あえて口をつぐむ研究者。皆が寄ってたかって「オオカミだぁ、怖い怖い」と騒ぎたてる滑稽さ。50年前に著者に筆をとらせた怒りと苛立ちは、半世紀を経た現代の私たちオオカミ賛成派の気持ちそのままである。

また時折、若い頃に本作を愛読したという自然保護系の方が、ニューエイジの神話である本作を根拠にして「オオカミは適応力が高く、ネズミを主食にする場合だってあるから、日本に再導入してもシカなんかちっとも食べずに、手近で楽に獲れる小動物ばかりで腹をふくらまそうとするだろう。タンチョウやカモシカのような貴重な種もおかまいなしだろうし、もし人間が弱いと学習すれば人間さえも狙い始めるかもしれない。何が起きるか分からないからオオカミ復活には反対だ」と主張されることがあり、何とお答えすればよいか困惑することがある。著者は「オオカミはほかの動物種の脅威となってもいなければ、人間の真の競争相手でもないという私の主要な論点は、不幸なことにほとんど受け入れられないままである。」(本書P220)と嘆いているが、まさにその通りで、こういう方は本作のメッセージを正反対に受け取っていらっしゃるように思える。同じ章で著者は「真実の発露が事実によって妨げられるのを許さない」のが自分のやり方だ、と述べているが(本書P218 )、オオカミを擁護しようとするあまり客観的な事実にあえて背を向けた結果、愛読者を自称する人にさえ真意がきちんと伝わらないとは、なんと皮肉なことだろう。著者もペテン師呼ばわりされた甲斐がないというものだ。
私たちオオカミ賛成派がここから受け取るべきメッセージは、いくら遠回りに見えてもセンセーショナリズムには走らず、あくまで科学的な事実に基づくオオカミ賛成運動を根気づよく展開しなければならない、という教訓だ。
また、自然保護活動をする人や研究者、自然行政の担当者たちが受け取るべきメッセージは、本作で茶化されている基礎研究の部分だろう。一見意味のないことに見える地道な基礎研究が自然のためにどう生かされるのか、ていねいに説明し普及教育することを怠ると、一般の人々の目にはそれがどう映るか、それが主人公の姿として滑稽に描かれている。地域に暮らす人々がどんな社会や自然と生きることを望んでいるか知ろうともせず、難しい専門用語や数式をふりかざし、自分は専門家なのだから物を知らない素人は口を出すなという態度をとると、結局は重要な基礎研究を台無しにされ、自然を守ることには活かせなくなる。耳に痛いこのメッセージを、ぜひ自らへの教訓として胸に留めて欲しいと思う。

さまざまなメッセージを受け取ることができる含蓄に富んだ物語は、お酒に似ている。節度をもって楽しめばそれは百薬の長となり、豊かな時間をもたらし、友との会話を弾ませてくれる。だがどんな高価な美酒も、のめり込み、溺れ、自分を見失えば害にしかならない。50年という時に磨かれた甘くも苦い本作という美酒を、この機会にあらためてじっくり味わってみてはいかがだろうか。 (南部成美)

狼が語る: ネバー・クライ・ウルフ
ファーリー・モウェット著 小林正佳訳 築地書館 2014年

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