狼信仰とオオカミ復活は関係があるのか

去る2011年5月6日、オオカミを祀っていることで有名な奥多摩の御岳神社で、7年毎の大口真神式年祭が信者を集めて開かれた。どのような祭儀が行われたのか、残念ながら私は知らない。御岳神社の理解とバックアップを得て、日本オオカミ協会の会員によるオオカミ復活署名や啓発のためのオオカミ展が行われた。神社と御岳山観光協会によるオオカミ講演会も行われた。これら一連の行事は、全国に先駆けて、狼を祀る神社がオオカミ復活と自然保護に関する啓発活動に動き始めた嬉しいイベントだった。

オオカミを神として祀る、多少とも名の知れた総本山的な神社は関西から東北南部にかけて20近くがあげられている(平岩米吉著「狼」築地書館.1992.p88-99)。しかし、御岳神社のように、オオカミをアピールする活動に一歩踏み出した例は知られていない。一般的には、オオカミ信仰をはじめとした八百万の神信仰は、オオカミ復活運動や自然保護文化に無関心であったという印象が強い。神道が自然崇拝に根ざしており、オオカミ信仰もそうしたもののひとつである。その由来は神社によって様々だが、農作物の害獣退治に因んでいる点は共通している(栗栖健著「日本人とオオカミ」雄山閣.  2004.  p120-128)。御岳神社で聞いた話も同様だが、こちらは日本武尊の東征に関係付けている点が独特である。

古代、日本武尊の一行が山道を往くと大鹿が現れて行く手をさえぎった。尊は弓矢でこれを射たところ、大鹿は姿を消し、たちまち一面濃霧に包まれ、道に迷った。すると1頭の狼が現れ尊一行を無事に目的の地に先導した。尊はこれを褒めて「よき獣である。神としてこの地の社に末永く祀ろう。この地の民の安全を守るのだ」と申しわたされた。以来、オオカミは眷属となった。

この縁起は、当時の稲作農耕文化が狩猟採集文化と対立し、前者が後者を駆逐する歴史的過程を背景にしていることが容易に想像される。このようにして、オオカミを奉ずる神社は権力側に依拠し、その眷属であるオオカミもまた権力側に組み込まれ、獣害除けとして農民の現世利益的な信仰を集めることになった。さらに、オオカミ信仰には、火難、盗難除けの効能も加わり、農業社会の広汎な支持を集めることになったのである。

しかし、社会情勢の変化に対応してオオカミ信仰も変質する。

時代は下って18世紀、日本に狂犬病が侵入し、狂犬病オオカミに噛まれる事故が発生すると、これを信仰の対象から外す神社も出てきた。狂犬病にかかったオオカミによるものとは考えられない人身害の記録が増える。この原因を山林原野の開発などに帰すような考察もあるが、徳川綱吉による「生類憐みの令」(1687~1709年)によって、狩猟や駆除から逃れた獣類の人馴れが進み、人への恐れが薄らいだことも考えられる。同じように増加した人馴れした野犬による人身事故も増加したであろう。イノシシやクマによる人身事故が多発するようになった昨今と同様であろう。こうした傾向は、オオカミも同様であったのではないかと考えられる。さらに、江戸時代後期の商業活動の活発化は、オオカミ信仰に代わるキツネを祀る稲荷信仰を広めることになる。

オオカミへの逆風は時代とともに一層強くなる。明治政府はオオカミを文明開化の帝の御世にそぐわぬ蛮獣として駆除を進め、終には絶滅に追い込んだ。北海道でも東北でも官憲が先に立ってオオカミの駆除策を率先して進めた(東北については中沢智恵子「明治時代東北地方におけるニホンオオカミの駆除」フォレスト・コール13:18-21)。英国の女流旅行家イザベル・L・バードも1878年(明治11年)の蝦夷地での聞き取り情報として、アイヌの「狼崇拝はごく最近になくなった」と記している(「日本奥地紀行」(訳:高梨健吉)平凡社ライブラリー329.2000.p432)。これを日本政府の直接的な干渉のためだとは記しているわけではないが、アイヌは倭人と日本政府を恐れていたことを記しているから(同書382. p423)、文明開化にそぐわぬ害獣としてオオカミ駆除の強い風潮を受けてのことだったかもしれない。

このオオカミの逆境にあたって不思議なことは、オオカミ信仰が、なんらオオカミを擁護したり、政府に抗議したりしたという話を聞かないことである。神道のこうした自然保護に関する消極性について不思議と感じたり、批判の対象としたりするのは、田辺市に在住して市井の博物学者としての人生を貫いた南方熊楠もそうであった。

明治時代末、神道を推奨した明治政府は、神社振興の財政に窮して「神社合祀」を進めた。合祀によって神社の数を減らし、補助金を減らす、一種の合理化政策を採ったのである。こうして多くの神社が廃社となった。こうした神社の宝物や神社林は売却されてお金に変えられ、神職の懐を肥やしたという。直径数メートルの大楠などの神木も容赦なく伐採されたのである。開発だけに目を奪われた富国強兵を唱えた明治政府の行動としては驚くに値しないが、わりと知られていないのは、「神社合祀」に反対する南方熊楠の自然保護活動である。

南方熊楠は、神社の自然保護ならびに国民的価値をいち早く認識していた。当時の政府の高官だった柳田国男宛の熊楠の書簡には、彼の熱い心情が繰り返し記されている。その書簡より抜粋する。「神社濫滅のため土俗学・古物学上、また森林濫伐のため他日学術上非常に珍材料たるべき生物の影を止めず失せ果つるもの多く、さて神職等、素餐飽坐して何のなすところもなく、淫祀狐蠱の醜俗蜂起し候こと、実に学問のためにも国体のためにも憂うべき限りに有之候。(明治44年3月21日、南方熊楠から柳田国男宛から抜粋:飯倉照平編「柳田国男・南方熊楠往復書簡集上」平凡社ライブラリー.1994.p17)」「神罰などいうこと、あるかなきか知れず。しかし、あるとしても差し閊えなき限りは、あまりに迷信迷信迷信と神木を伐ることをまで恐れぬように世間を開け切らしむるも如何あるべきやと疑われ申し候。皇家に対し奉り億兆が一心忠勤なるも、つまるところはこの神罰をおそれかしこむの念に外ならずと存ぜられ候。つまり合祀励行以来、小生ごとき神仏を拝せず科学のみ修め来たりしものが、反って古いことをさえずり一種の御幣を担ぎまわり、神で糊口する神官、祠職、宮世話人、氏子総代等が一切神を恐るるを迷信と卑瞥する、さかさまの世と相成りたるに候。(明治44年6月18日夜、前掲.1994.p83-86)」

こうした南方熊楠の筆一本にかけた自然保護運動は、19世紀半ば頃、鉄道開発による伐採からオークの森林を守る孤高で先覚的な英国の桂冠詩人であるウイリアム・ワーズワース自然保護運動(川崎寿彦著「森のイングランド」平凡社ライブラリー202.1997.p300-306)を思い起こす。もっとも、ワーズワースは当時のロマン主義思想に強く影響されてのことで、一方、南方熊楠はあくまで科学者としての活動であったと考えていた点が違っているかもしれない。とはいえ、英国帰りの熊楠であるからそうした思想を持ち帰っていたかもしれない。いずれにせよ、19世紀および20世紀初頭の先覚的な自然保護運動という点では両者は比べられるであろう。

「平地の植物はただ神森にのみ生を聊しおるに候。しかるに、合祀滅却のためすでに絶滅せしもの多く、・・・(明治44年6月12日、前掲書.1994.p74)」との南方熊楠の記述は、「鎮守の森」の植生保護上の重要性を指摘する宮脇昭横浜国立大学名誉教授の考え方にも通じる(宮脇昭著「鎮守の森」新潮文庫2000)。「現在の自然科学者は、一部の人を除いてあまりにも宗教に対して疎い。私も殆ど無知である。同時に宗教者、宗教学者も、それぞれの教義の原点については深く修められていると思うが、それが自然界、生きとし生けるものとの対応についてとなるとどれだけ基本的な知見を持っていらっしゃるか、やや不安である。(前掲書 p125)」と同教授が記している。

日本人は古来、一神教の人格神信仰ではなくて、八百万の自然神を信仰してきたのである。だから、私たち日本人は、古より自然を大切にし、自然との共生を大切にしてきたのだと意見に出会うことがあるが首を傾げてしまう。本当にそうなのだろうか。そうならば、今日の国土が開発でボロボロになっているのはなぜなのか不思議である。以前、関東地方のオオカミ神社の神職に、オオカミを再導入して食物連鎖を復元してシカ害を鎮め、自然生態系や農林業を救いたいものだと話したところ、御眷属をそのようなことに使おうとするのはまことに怪しからんと不興を買ったことがあった。しかし、この神社は江戸時代、氏子に獣害避けにオオカミを貸し出す「レンタルウルフ」を行っていたのだから、「怪しからん」はまったく釈然としない。この神職は、実は世俗的願望に支えられている信仰を忘れて、観念的な神の権威を振りかざしたくなったのだろう。ここだけに限らず、多くの神職や氏子がオオカミ保護について関心が薄いのは、教義が不鮮明で、信者のすべての要求を一方的に聞き入れようとする自然崇拝の特性に原因があるのかもしれない。

いずれにせよ、はっきりしているのは、信仰上のオオカミが直接現実の自然との接点を持たないということである。同様に、八百万(やおよろず)の神(自然の神々)もまた現実の自然とはつながっていないのである。ましてや生態系の頂点捕食者であるオオカミの復活が自然の再生のシンボルであるなどといった認識は存在しない。オオカミも自然も、神格を得た途端に現実の自然界とは縁の無い形而上(観念)的存在となってしまい、信者の世俗的欲望の実現手段と化してしまっているのである。あまりに原初的な祈りゆえに、そのままでは高度な精神的活動には発展しない。それゆえに、難行苦行を通して、欲望を取捨選択し、自己浄化する必要性が生じる。神道にあっては、密教と結合して山中自然の中での修験道のような荒行が生まれた。こうした修験者は社会的存在であるがゆえに、その宗教的体験は社会に伝えられてよい。しかし、それが個人的体験の範疇に止まる限り、社会への影響は実に微々、遅々たるものである。それゆえに、修験の神聖な場である自然生態系の保護活動に結びつくことはなかったのであろう。そうしたスポット状の場所が自然のままに残存していたとしても、それは開発を寄せ付けないような急峻な地形に守られていたりした偶然の結果であることが多い。世界遺産に登録された熊野古道はスギ、ヒノキの単調な人工林ばかりに囲まれた山々、峰々をうねっているが、これを修験者ですら不思議と感じる人は多くはないようだし、ましてや自然林への再生を主張する人の存在を聞いたことがない。

最近、氏子など参拝者の減少と高齢化が進んでいるという。オオカミ神社は、農業の守護神としての近隣農民の信仰に支えられて栄えてきたのだが、高度成長による農業の衰退、農業人口の激減と高齢化の影響を諸に受けて将来が危惧されるようになった。オオカミ信仰を必要とする信者が激減したのである。その結果、神社の精神的基盤だけでなく、経済的基盤も崩れつつある。もちろん、神社は信者の復活によるその再興を望んでいるのだが、そのためには、精神・経済両面から神社と神前集落の維持が欠かせない。経済的には、観光収入、すなわち、寄進と宿坊、売店の繁盛が前提だ。しかし、往時の参拝者の母体である農業社会に回復の兆しは見出せない。農業者に代わり、都市住民の関心をひきつけることが必要だ。しかし、都市住民の願望は雑多である。往時の「講」といった信者集団の編成はほとんど不可能である。どうしたらよいか、これが現代の神社振興の課題なのである。

オオカミも犬も同属だから、都市住民のペットブームにあやかって犬の福祉愛護に取り組むというアイデアもある。あまりに世俗的な感なきにしもあらずである。これについての議論は動物愛護論、そのベースとなるヒューマニティ論などと関係してくるから別の機会に譲るとして、ひとつ提案するとしたら、環境問題に取り組むというのはどうだろうか。もともと、オオカミ神社は自然神を祀ってきたのだから、これに現代的な意味づけを上乗せするのは簡単だろう。八百万の神にも喜んでいただけるはずである。現代は環境保護、とりわけ自然保護活動抜きには語れないし、これなしでは人類の未来もない。もっとも、このような自然と環境、その保護に関する認識の低さは、神社信仰だけでなく、洋の東西を問わず、宗教界に共通しているようである(保坂幸博著「日本の自然崇拝、西洋のアニミズム」新評論.2003)。歴史を振り返れば、オオカミなど野生生物を含む自然を保護し、共存共生を教える宗教の存在を聞いたことがない。少なくとも世界のメジャーな宗教にそうした教義はなさそうである。今日の環境問題の深刻さに関する国際社会の認識の深化にも関わらず、宗教界の反応があまりにも鈍いところにも、近年の信仰離れの一因があるように考えられる。同様に、日本の自然保護、獣害対策にとってオオカミ復活の実現が待ち焦がれているにもかかわらず、オオカミ信仰からの働きかけはほとんど感じられないし、大衆のオオカミ信仰はますます希薄となりつつある。オオカミ信仰はもともと自然保護とは縁遠い、現世利益を求める農民の獣害対策の一環に過ぎなかったからである。今、日本の農業者の減少は高齢化を伴いながら急速に進んでいる。強力な支え手を失って、このままでは、これから先も神社も眷族オオカミも虚像の世界に消えるのは避けられない。

この信仰が新たな生命を得て再生するとしたら、ノスタルジーの世界ではなく、自然の再生と保護、生物多様性の保全といった、人類の存続を懸けた環境文化を摂取してどれだけ大衆の精神の受け皿になれるかどうかに懸かっているように思える。最近、パワースポット探しが若者の関心を引いているくらいだから、環境問題だったら、もっと多くの若者の関心を引くかもしれない。私としては、こうした神秘主義を声高に否定する気はないが、手放しで好ましいとは思わない。しかし、こうした環境文化志向は、教義を創造し、それを前面に打ち出すことになり、伝統的に受動的、勝手気儘な八百万信仰の本質から外れ、「民族宗教」としての古くからの信仰の形を変えるものかもしれない。再び19世紀英国の女流旅行家イザベル・L・バードの言を引くと、自然崇拝とは「漠然とした恐怖や希望であり、自分たちの外の大自然の中に自分たちよりも強力なものがいるのではないか、という気持ちである」また「崇拝という言葉それ自体が人を誤らせる」とも述べている(前掲書.p431)。バードのこの考えは日本人の八百万神信仰にも通じるようだ。「敬するものを敬するあまりカミとしてまつった」これは司馬遼太郎(「この国のかたち二」文春文庫.1993.p86)の記述である。いずれにせよ、神として祀って念ずるだけでは何も変わらない。信者に何か規範を求め、それに従う行動を積極的に問いかけるとしたら、それは別の何か、たとえば「創唱宗教」への変身となる。いろいろ議論を要するかもしれない。

(2011年6月7日:丸山直樹)

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