森に学ぶ:ノネコを食うものは?

増えることは好いこと?

南伊豆のうっそうと茂るスダジイ林に囲まれた我が家の軒先に寄宿するノネコ10匹(雌4、雄6、全員血縁)の話。主人は、可愛がっているわりには、十分に食べ物を提供しない。ノネコたちの増えすぎと野性喪失を恐れるからである。だから連中はいつも空腹である。そして、蛾やセミ、サワガニ、チョウチョウ、ゴキブリ、ミミズ、ムカデ、野鼠、ヘビ、トカゲなどの爬虫類、小鳥などの野生餌が食べ物の中心である。子猫時代から貧栄養で育ったせいか、体格体重とも飼い猫と比べたらまったく貧相である。昨年、生まれた子猫の中からとりわけ美しい一匹を連れ帰って飼っている水道屋のお兄さんが一年ぶりに訪ねてきて、うちのノネコたちを見て仰天した。「エッ! この連中、うちのネコの兄弟ですか。ちいさいなー。半分くらいではないですか。別の種類かと思ってしまった。」

そうなのである。野生では栄養状態で体つきが違ってくる。とりわけ成長段階での貧栄養は体の大きさに影響する。成長してからいくら食べてもチビはチビのままである。森を食い尽くしたシカたちは、減る前に、小型化して高い生息密度を保とうとする。通常の3分の2くらいまで小型化するのは普通のことだ。ノネコも例外ではない。体の大きさや形態に頼っていた昔の分類学者が細分しすぎて分類に失敗した原因はこんなところにあったのである。数少ない標本に頼っての分類は細分主義の間違いに陥る危険性がとりわけ大きい。絶滅した日本産のハイイロオオカミを独立種とした分類は、そうした細分主義のハイリスクの典型例であろう。現在、DNA分析によって過去の細分化しすぎた分類群を再統合するケースが多いのはこうした事情によるのであろう。野生状態では、食料資源が少なくなったら、少数の強い者がそれを独占して立派な体格を維持するよりも、仲良く分け合って、チビでもよいから個体数を増やす方を戦略的に選択するらしい。数が多ければ多いほど、周囲に散らばっていって、運よく餌などの好適環境に遭遇し、繁殖してもっと増えるチャンスが大きくなる。数がわずかだと失敗は許されない。数が少ない分、集団として生き延びる可能性が小さくなるのだ。

このちびネコたちは、貧栄養にもかかわらず、生殖活動は一人前である。季節になると、どこやらともなくプロポーズにやってくる雄ネコの中にお気に入りを見つけると、早速、お尻を振り振り、艶かしい仕草で近づいて、挙句には、一匹だけ仲間から離れて一時の秘事を楽しむ。結末は妊娠。こうして、まだ暖かいとは言えない春早く、二匹が軒下の蜜柑箱の中で合計11匹の子猫を出産した。食べ物も十分に提供しない薄情者の主人でも子猫はかわいいのだが、内心は不安である。子猫たちが揃って成人するのはまことに目出度い。だが、今の10匹に子猫11匹が加わったら合計21匹になってしまうではないか。これでは森の中の猫屋敷になってしまう。妻は、毎朝、はるか下の町道にあるポストに新聞を取りに通うのだが、ノネコたちは尻尾を立てて尻を振りつつ満足げに彼女に従う。妻も上機嫌である。これはこれでほほえましいのだが、冷めている私としては、どうしても増えすぎの弊害を考えてしまう。今年の秋に雌猫はまた妊娠する。そして子猫が生まれる。雄猫はいずれ出て行くとして雌は残る。20匹が30匹?ウーム、猫算なんて聞いたこともないが、どうも現実になりそうな感じがする。ノネコ集団にとっても増えることは良いことなのだ。これは一見理にかなっているように見える。しかし、である。

 

増えすぎが心配

増えることは、いつもよいことなのだろうか。この連中が周りの森を徘徊して空腹を満たすために手当たり次第に狩りをし始めたら、森の生き物たちはどうなるのだろうか。せっせとアカネズミだのヒミズだのと小哺乳類を捕食する。ヤマカガシやマムシ、アオダイショウといった爬虫類も例外でない。最近、カナヘビやトカゲの数もめっきり減った。そういえば、以前は家の脇で鳴いていたフクロウの声が遠のいたような気がする。地上で営巣するフクロウにとって捕食者としてのノネコは脅威に違いない。それに同じような餌を食べている。食物をめぐる競争者でもあるのだ。ノネコが増える分、フクロウのような競争者や餌になる被食者の数は減ってしまう。絶滅する種が出てきても不思議ではない。これは生物多様性の低下につながってしまうではないか。そもそも、ノネコは日本の自然生態系の構成者ではないのだ。彼らは紛れもなく外来種なのである。昔、こう考えて野良猫やノネコの存在に警鐘を鳴らしたら、愛猫家から物凄く抗議されて閉口したことがある。愛猫家には愛猫しか目に入っていないのだから始末が悪い。昔、タスマニア島のクリフトン岬でハシボソミズナギドリという海鳥のコロニーを調査していたことがある。ある夜、数百羽の雛が穴の中で咬み殺されているのを見つけた。ノネコのしわざであった。日本では、強力な捕食性哺乳類がいない離島でしか大規模な海鳥のコロニーが見られないのは、こうした捕食者の存在が原因ではないかと思う。

ノネコも増えすぎることなく、生態系の中に収まっているのなら問題はない。ノネコの自然界での頭数調節はどうなっているのだと毎日気にかけているうちに思いがけない事件が起きた。

 

子猫殺し:犯人はネコ

子猫誕生から約1ヶ月が経過し、彼らの運動能力が発達し、蜜柑箱から勝手気ままに飛び出して走り回るようになったある夜、凄まじい呻き声と叫び声が立て続けに聞こえた。スワッと飛び出したところ、居候のノネコたちよりも一回り大きい、尾の長い白猫が子猫を咥えて走り去るのが夜目にもみえた。居候猫たちはなす術もなく揃ってじっと見つめている。箱の中から子猫のミーミー、か細い泣き声がする。見ると子猫4匹が死んでいる。泣いているのは肩を噛まれて前足が動かない一匹の子猫である。殺された子猫はどれも正確に首筋を噛まれている。結局、無傷で残った子猫は5匹であった。翌晩も白猫が来襲し、前の晩に手傷を負っていた子猫を咥えて去った。足が動かなくなった子猫をどうして救ったらよいか思案していたのだが、この事件で私たちの動物愛護的心配は消滅した。

白猫は翌々日もやってきた。夜間だけでなく日中も襲撃が繰り返された。そして、とうとう二匹の子猫を残すだけになった。居候の10匹の成猫は、揃いも揃って、この一匹の白猫に歯が立たなかったのだ。野生では体の大小と気性の激しさがものをいうようだ。6月1日、家主の私たち夫婦は、残った二匹の子猫を気遣いながら、後ろ髪を引かれる思いで旅に出た。10日後の朝帰宅。心配どおりに、最後の二匹の子猫の姿はなかった。その後も何度か白猫は襲ってきた。子を亡くした母猫は猛烈に戦い、腹部と後脚の皮膚が剥がれ、見るも無残な手傷を負った。傷口にはマダニが何匹も食いついている。これも食物連鎖の一端に違いない。驚いたことには、この深手の傷は半月足らずで目立たなくなった。野性は強い。傷口をぺろぺろ舐めて唾液の「猫石鹸」で消毒して化膿を防ぎ、自力で回復するのである。しかし、猫の舌の猫ダワシにもめげずにマダニどもは食らいついたままだ。でも心配は要らない。彼らは腹いっぱい血を吸ったら、勝手に地面に落ちるのだ。白猫は子猫が全滅したのがわかったのか、その後、連日の出現は途絶えた。しかし、不定期に出現し、その度に居候グループは逃げ回っている。

結局、11匹の子猫はすべてこの白猫に捕食されたのである。ネコの増えすぎに関する私の心配は、今回は取り越し苦労に終わった。周辺の森林に棲息する生物たちへのネコによる捕食圧の増大はかろうじて抑制されたことになる。

 

子殺しの意味は?

問題は白猫である。猫は股間の睾丸がよく見えるのでオスだとすぐにわかる。このオス猫の襲撃は偶然だったのだろうか、タイミングを計ってのことだったのだろうか。以前、タヌキに襲われたときも、子猫の運動能力が発達し、ミーミー鳴き始め、箱から自由に出入りができるようなった生後1ヶ月経ってからのことである。この頃になると、子猫の排泄物は親が食べるだけでなく、自力でするようになり、親は片付け切れなくなる。その臭気が白猫を誘引したのかもしれない。同時に、仔猫の鳴き声も大きくなるので、これも原因かもしれない。

雄ネコによる子猫殺しについては話に聞いていたが、実際に遭遇したのは今回が初めてである。どうして雄ネコは同種の子猫を捕食するのだろうか。

社会生態学的に考えられるひとつの理由は、単純に食物確保が目的であり、食物が不足がちの環境では子殺しはイージーな食物確保の手段なのかもしれない。多くの動物種で見られることである。もうひとつは、オスによる交尾のためのメスの確保である。子供を殺されたメスは発情が早まり、オスの欲望を達成しやすくなるという考え方である。さらには、自分の遺伝子を確実に残すために、他のオスの遺伝子の入った個体を消去するためとの説明もある。いずれにせよ、こうした子殺しはネコだけでなく、トラの社会でも認められるという話を聞いたことがある。インドに生息するハヌマンラングールというサルでも同様の子殺しがあるという。

我が家のノネコの場合、生態学的には個体数コントロールを自己調節的に行うことを通じて環境との均衡を図るという点で意味があるのかもしれない。今回は成功してはいないが、交尾相手も入手できるとなると、暴力的なオスにとっては一石二鳥の行動であるともいえる。

いずれにせよ、今回の事件で個体数の増加は阻止された。この子殺し(種内捕食とでも言おうか)が偶然の出来事ではなく、ネコ社会に備わった個体数調節システムだとすれば、餌などの資源に直接制約されるのではなく、その前に働く社会内部に備わった自己調節機能が存在する可能性がある。南伊豆の森林には、他の地方よりも多くのノネコが生息しているように感じられるが、大きな増減があるという印象はない。力が弱い子猫を狙う捕食者としては、カラス、タヌキ、キツネが存在することは明らかだが、今回の事件で同族の雄ネコもそうだということがわかった。

捕食だけでなく、伝染病、台風や寒冬なども個体数調節機能の一翼を担っているのであろう。最終的に増えすぎを調節するのは食物の限界があることはもちろんである。動物生態学者は、食物などの資源欠乏を究極要因、捕食や病気、天候などを漸近要因と呼んで整理している。漸近要因で決まる生息密度を社会的飽和密度、究極要因で決まる密度を生存限界密度などと呼んだりもしている。どうやらノネコも例外ではなさそうだ。オオカミも含めて捕食者の社会には例外なく当てはまる自然現象なのであろう。人間が余計な手出しをしない限り、捕食者の増えすぎなどあるわけがないのである。オオカミは、増えすぎのシカを捕食して増え続け、シカを食べきったら、人里に出てきて人を襲わないかと心配する人が少なくないが、自然界ではありそうもない話である。こうした誤解は、私たちが自然から離れて生活し、自然について無知すぎるからなのであろう。これも、受験教育が生態学を軽視してきた「ツケ」のひとつであろうか。ネコも、町の家猫ではなく、森の野生のままに暮らしていれば、私たちの生態学の先生なのである。共食いは野生動物界限定ではない。最近は流行らなくなったが、昔は人間社会でもさまざまな形で当たり前に起きていたのである。最近有名なハーバード大の哲学教授サンデル先生も、人間の共食いを例に引いて「正義」を講義なさっておいでだ。

こんな童話の絵本があった。猫好きのおじいさんが、さびしがっているおばあさんのために、猫を探しに出かけ、いつの間にか100万匹、1千万匹、1兆匹も集めてしまった。そしたら、食べ物がなくなった猫たちは共食いを始めて、結局、残ったのは弱虫の一匹のちび猫だった。おじいさんとおばあさんはこの一匹を大切に育てて、仲良く暮らしたという。ワンダ・ガアクぶん・え、いしいももこやく「100まんびきのねこ」福音館書店(1961)である。ガアクは1928年にこの絵本を作った。福音館本には「読んであげるなら3才から、じぶんで読むなら小学校初級向き」と記されている。こんな童話、子供向きなのだろうか。「哲学するなら大人向き」とでも書き足しておこうか。                                         (2012年6月24日:狼花亭)

 

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