イノシシは道を崩す: 「反対という名の思考停止」
■路肩が危ない!
イノシシが道を崩す恐れがあることは、町役場の担当者もよくわかっているのだが、対応に困っているのである。こうしたイノシシが原因の路肩崩壊は今回が初めてではない。数年前にもあった。対応が遅れたために、集中豪雨の際に、問題箇所はやはり崩壊し、石積みコンクリート壁を建設して修復した。数百万円の工事費を要したはずである。イノシシによる被害は農作物被害や人身害だけではないのである。こうした道路被害の発生は、最近では行政も気にしているが、これといった予防策はとられていない。それでなくとも貧困化している地域行政の財政にとって、この手の出費は馬鹿にできない。イノシシの農業被害は全国で毎年数十億円に上るが、道路被害が加わって被害額は増え続ける一方であろう。
■予防策は?
予防策は?山中の道路に関しては打つ手なし。農耕地だったら、進入防止柵の建設とか、彼らの隠れ場所をなくす薮刈りなどの方策が推奨されている。しかし、彼らの数を減らせないのが問題だ。わかりきったことだが、個体数を減らすためには狩猟と駆除しかない。このために、捕獲規制の大幅緩和もはかられているが、多少の効果はあっても一時的で焼け石に水である。イノシシは減るどころか増える一方である。課題はハンターの確保なのである。
筆者がこの地に移住したのは12年前。当時、ハンターグループは三つあった。地域住民による10人前後のものが二つ、都会からシーズンになると出かけてくる数人のグループが一つ。いずれも、60代以上が中心の高齢グループであった。その中のリーダーが言ったものである。「俺たちはあと数年もしたら引退だ。そしたらこの地域でイノシシを獲る者はいなくなる。」そして、そのとおりになった。もう猟期になっても猟犬の吠え声と鉄砲の音を滅多に聞くことはなくなった。銃を捨てた高齢の罠猟師がたった一人、カブに乗って周年とびまわっているが、イノシシは増える一方である。
我が家の庭先には昨夜も数頭のイノシシがやってきた。こちらは、ほぼ毎週の訪問で、彼らのお目当ての食べ物は殆ど残っていない。あるのは落葉の下に隠れているミミズくらいである。さぞ落胆しているだろう。この辺の村人だったら誰でもしていることだが、自分も自衛策として、猫の額にもならない家庭菜園を柵で囲うことにした。
■ハンター確保は絶望的
瀬戸内海の小豆島の住民から「オオカミ賛否アンケート用紙」が戻ってきた。添えられていた手紙には次のように記されていた。「近頃は昔の段々畑も雑木が繁り、山の手入れをする人もなく荒れ放題。少年のころ泳いでいた池も濁り汚れ鹿や猿、野兎、そして猪が出没し、農作物を食い荒らし大変です。やっぱりオオカミ様にお願いしないと、と思うこのごろです。」
この状況は、島だけでなく、全国どこでも同様であろう。被害と向き合っている地方行政は、無駄と知りつつ、何もしないわけにもいかず、罠猟、ジビエ(食肉流通)、報奨金、薮の刈り払い、刈り払いの代用として牛の放牧とか、代わり映えのしない対策を繰り返し推奨するばかりである。日常的に被害と向き合っていない中央行政はきわめて鈍感に見える。地域の状況を知っているように思えない。審議会や委員会のメンバーも同様である。実態を熟知していない委員と官僚は互いに顔色を窺がっていて、両者は出口の無いマンネリというループをつくっている。このループは、イノシシか地域住民がいなくなるまで存続するだろう。この間にもイノシシは増え続ける。イノシシの増加を抑制し、被害を減らすためにはどうしたらよいのだろうか。
被害防除の伝統的な担い手は、地域のハンターだった。地域ハンターの山村社会の住民たちであった。しかし、地域社会は後継者がいないままに高齢化して、急速に衰えつつある。いくら捕獲規制を緩和しても、新しい捕獲技術を導入しても、いくら報奨金を増額しても、効果はあったとしても一時的に過ぎない。後継ハンターが育たなかったらすべては徒労である。ハンター確保には地域社会の復活と振興が前提になる。だが、その可能性はほとんどない。昨今の状況は、国内問題にとどまらず、戦後半世紀にわたる国際社会の経済システムの激変によるものなのだから、この潮流を押し戻すような超強力な国際政策でもなければ期待は持てない。それでも行政や野生動物管理学の専門家・研究者たちは、変わり映えの無い、目先の一時しのぎを無神経に繰り返すばかりだ。この理由は単純である。これを取り上げたら彼らの出番が無くなるからである。
■食物連鎖による自然制御が不可欠!
ハンターに頼れないならば、これに代わるものを考えればよい。地球で45億年前に生命が誕生して以来、生物は環境の安定を目指して進化し、今日の生命の多様性を生み出してきた。生物多様性の意義とは、人為による種の絶滅を防ぐことだけでなく、生命の存在する環境の安定を守ることにあることなのである。ハンターは、自然の中では代替物(ピンチヒッター)に過ぎない。食物連鎖の構成員である頂点捕食者オオカミの穴を埋めてきたのである。明治時代の無神経な自然観に支配された行政がオオカミを絶滅させて以来、ハンターが代役を装ってきただけに過ぎない。
代役の能力は限られたものであり、その偏った仕事はきわめて不完全なものである。所詮、代役に本物は演じられない。オオカミの捕食は、幼獣や若い個体、それに体力が落ちた老齢個体や故障個体に向けられる。だが、ハンターによる狩猟は、健康で活力ある個体に集中する。ハンターは、幼獣や小さな若い個体は、駆除の場合であっても、捕獲しようとしない。成長して大きくなってから捕獲するために意図して見逃すという話を聞いたことがある。こんなことで、自然は決して代役のハンターに満足してはくれないのである。いってみれば、私たちは、オオカミ絶滅後の一世紀の間、いつまでたっても「真打ち」が登場しない「前座」だけの気の抜けた寄席を見ていたようなものなのだ。前座(=ハンター)はもう限界、疲れ果てているのだ。
一時の「前座」=ハンターの出番は終わった。自然は「真打ち」=オオカミの登場を求めている。前座と真打ち、ハンターとオオカミの組み合わせこそ欠かせない。これこそ、自然と私たちが求めている本物なのである。野生動物管理学の専門家や研究者、専門行政は、いい加減、「前座だけ」の限界と真打ち=オオカミの復活による食物連鎖の復元、すなわち自然制御の必要性に気づいてもらいたいものだ。
■イノシシとオオカミ
オオカミにイノシシは減らせるかと聞かれることがある。イノシシはオオカミの捕食対象であるから、もちろん、イエスである。オオカミがイノシシを捕食するのは、シカの数に比してイノシシの数が多くなったときである。1990年代、ポーランド南東部でオオカミによる捕食と狩猟によってアカシカの数が減った時、それまで捕食対象のトップでなかったイノシシが集中的に捕食され始めた。アカシカの数が回復したにもかかわらずオオカミはイノシシを捕食し続けたので、イノシシの数はさらに減った。その後、オオカミの捕食はアカシカに戻ったので、イノシシの減少は止まったという報告を聞いたことがある。
イノシシの当才子のウリ坊は数頭で母親に連れられている。春から初夏にかけての誕生直後のウリ坊は、素手でも捕まえることができるくらいだから、いくら気の荒い母イノシシがついていたとしても、オオカミにとっては拾い食いの対象である。仔獣の捕食は個体数の抑制に効果的である。それにオオカミの存在がイノシシに及ぼす恐怖効果は絶大であろう。イノシシはいつもオオカミによるストレスにさらされることになり、イエローストーンのエルクジカで判明したような、妊娠率、出生率の低下が考えられる。
イノシシは一回の出産で平均約5頭の子供を生むと報告されているが、降雪がほとんど無く、冬暖かい地域では、さらに多い7、8頭前後のウリ坊を連れているケースも珍しくない。こうした多くの幼獣が捕食されること無く生育すれば、いくらでも増えるのは当たり前である。イノシシ成メスの行動圏は数十ヘクタールとみなされるので、子連れのイノシシが増えれば、生息密度はたちまち数十頭/平方キロメートルとシカ並みの生息密度になってしまう(ただし、イノシシの個体数調査法は未開発であるので正確なところはわからない)。狩猟が行われなくなったら、イノシシの敵はないも同然である。ハンターが姿を消した後、イノシシのコントロールで頼りになるのはオオカミによる捕食だけである。オオカミを頂点捕食者とする食物連鎖による自然制御が唯一期待されるというわけなのである。
■反対という名の思考停止
いまやオオカミだけしか頼りにできないというのに、その再導入にいつまでも反対する人がいるのは不思議なことだ。
「反対という名の思考停止」とはレベッカ・コスタ著(藤井留美訳)「文明はなぜ崩壊するのか」(原書房、2012)の一章である。「現代社会で反対を唱える人は多いが、解決策を出す人はほとんどいない」と著者コスタは言う。同感だ。獣害問題も例外でない。オオカミ復活に反対する意見は少なくないが、かといって有効な解決策の代案はない。コスタが言うには「合理的な解決策が出てきても、拒否、批判、抑圧、無視、詐欺、軽視、反論するのが当然のことになっている」からである。言ってみれば、オオカミ復活案に聞く耳持たずと拒否・反対する声が上がるのは当たり前なのである。さらにコスタは言う、「手に負えない状況に直面したとき、私たちはまずよく知っているものに逃げ込む。たとえそれが失敗を意味しても。」またまた同感である。効果はないと知りながら、大して役にも立たない会議を繰り返し、狩猟と駆除の強化、食肉普及を唱え続ける現在の状況はこの指摘にぴったりではないか。
「それに加えてもうひとつの反応が起きる。恐怖だ。私たちは、変化を脅威ととらえるよう生まれつき配線されている。だから本能的に変化を拒絶する。」これもコスタの弁である。反対拒絶本能。これは大変だ。オオカミ絶滅から一世紀、私たちはオオカミ不在に慣れきっている上に明治政府の愚かな国民教育で「赤頭巾ちゃん症候群」がすっかり蔓延してしまった。しかも、戦後半世紀を経て、文句を言いつつも太平な生活をすっかり受け入れている。だから、オオカミは人畜を害する猛獣だったのだから駆除されたのだと、根も葉もないひどいことを言う人も出てくるのだ。なんとなくオオカミを怖がっている人は珍しくない。学生がオオカミ復活を口にするだけで怒りだす狩猟駆除派の教授がいると聞いたことがあるが、きっとこの本能に支配されきっているのだろう。自由な思考とひらめきが欠かせない教授職としては早々に治療しないと役立たずである。
コスタ流にいえば、この本能的な変化拒絶症は、「リスク回避にもとづく自然淘汰の産物、すなわち進化の結果」だということになる。さらに困ったことには、この進化の産物である「反対思考や反対行動は、創造性とその産物である『ひらめき』を圧殺して、自分自身や地域、国を崩壊させてしまう」というのだ。これは社会を閉塞させ、果ては文明の崩壊につながるとコスタは警鐘を鳴らす。オオカミ復活は、この閉塞社会にあっては貴重な「ひらめき」のひとつということか。
オオカミ反対を本能の産物だと諦めているわけにはいかない。進化の流れに身を任せてばかりいると進化の脇道に迷い込むリスクが大きい。どうしたらよいか。この脇道を回避し抜け出すためには、ひらめきが必要なのである。ひらめきは、型にはまらない自由な思考から生まれる。自由な思考には、多様でしかも正しい情報が必要なのである。私たちは、オオカミ絶滅後の一世紀、オオカミに関する情報から隔離されていたのであるから、この際、嫌でも、本能の負の刷り込みを乗り越えて、オオカミとその復活の必要性をあらゆる面からじっくりと勉強することが大切だ。これが結論である。
(2012年9月1日記:狼花亭)