「熊野の森オオカミみゅーじあむ」オープンご挨拶に代えて
熊野の森とオオカミの深い関係
紀伊半島南部、現在の和歌山県・三重県の一部は熊野と呼ばれる。熊野一帯は森林地帯で、熊野三山の信仰が色濃い地域でもある。平安末期のこと、奥州平泉の藤原秀衡が熊野詣に行く道中で秀衡の妻が急に産気づき、大きな岩の傍で出産した。しかし夢に出てきた熊野権現のお告げにより、秀衡と妻はそこに赤子を置いて熊野詣を続行した。残された赤子はオオカミに守られ、大岩から滴る乳を飲み両親が戻るまで無事だったという。
奈良県下北山村のかわどり社という神社は、地元住民に飼われ猟犬として活躍したオオカミが、ある時山で野宿中に主人を襲おうとして、それを察知した主人に逆に撃ち殺されてしまったという言い伝えが由来となっている。似たような言い伝えが和歌山県龍神村にも残っており、狼神社という小さな祠がある。奈良県十津川村の高滝神社はオオカミを眷属とする。祭りで使った幣を譲り受け田畑の四隅に立てておくとシカやイノシシといった害獣が寄り付かなかったという。
十津川村の玉置神社は十津川郷全体の神社であり熊野三山の奥の院とも称される。かの南方熊楠も強い興味を持ち、この地にオオカミ信仰が存在してきたのは間違いない旨を述べている。
「近ごろまで熊野地方にて、狼を獣類の長とし、鼠に咬まれて重患なる時、特に狼肉を求めて煮喫せしを参するに、古えわが邦に狼を山神とする風ありしならん。虎骨、虎爪と等しく、狼皮、狼牙、狼尾、辟邪の功ありという支那鋭、上の邪視と視害のついでに言えり。大和吉野郡十津川の玉置山は海抜三千二百尺という。(略)その神狼を神い者とし、以前は狐に付かれしもの、いかに難症なりとも、この神に祈り蟇目《ひきめ》を行なうに退治せずということなく、また狐人を魅《ばか》し、猪鹿田圃を損ずるとき、この社について神使を借るに、あるいは封のまま、あるいは正体のまま渡しくれる。正体のままの場合には、使いの者の帰路、これに先だち神使狼の足跡を印し続くるを見、その人家に達する前、家領の諸獣ことごとく逃げおわるという。(略)社畔に犬吠の杉あり。その皮を削り来て、田畑に挿《さしはさ》み悪獣を避けしという。守禦の功、犬に等しという意か。事体かくのごとくなれば、虎狼をもって小児をすかすは、魔除と何の関係なきと同時に、わが邦従来狼を魔除に用うる風ありしは、疑いを容れずと断言しおく」(南方熊楠全集第二巻より)
昭和30年代に十津川村の民俗を調査した林宏は「十津川郷採訪録」でオオカミについての生き生きとした証言を記録している。「オオカミはかやほ一本で身を隠す」「出会って目を合わせている間は逃げぬが、一瞬眼を外らすとパッと逃げる」「狼は人を喰わぬという」「狼はそう人にはかまわぬものだ」「普段は到って人を保護するくらいのものだ」「人にはかまわなかった」「オオカメは自分からは決してかかって来ない」「そんなもの怖いことない。ほかのものが災いせんように守って呉れるのだ」「明治の水害からこちらめっきりいなくなった」などの証言から、信仰の対象というだけでなく、生物としてのオオカミの行動や生態を実体験として知っていた人がいたことがよくわかる。
吉野熊野国立公園は奈良県、三重県、和歌山県の3県にまたがり山岳と河川、海岸をつなぐ国立公園で、昭和11年に指定された。明治の近代化のなかで自然資源の活用を国策として推進する政府に対し、急速に失われていく自然の姿に危機感を抱いた人々がいた。大正5年(1916)の東京帝国大学の白井光太郎博士の講演「吉野名山の保護について」を聴講した吉野郡役所技師の岸田日出男は、白井の説く自然保護に感銘し、吉野郡当局の担当として吉野熊野国立公園の保護に尽力した。折しも翌大正6年(1917)には四日市製紙による大台ケ原原生林の伐採が開始されている。彼は後日「吉野熊野国立公園の父」と呼ばれることになる。
彼は奥吉野の山岳の実地調査などを精力的にこなす一方、オオカミに強い関心を示し情報収集を行い、「日本狼物語」の原稿を執筆した。そこにもやはり当時の人々の経験談が詳細に記載されている。なお彼は明治16年(1983)に捕獲された奈良県上北山村産のニホンオオカミの頭骨を昭和14年(1939)に入手しており、大変貴重なものである(大淀町指定文化財)
明治38年(1905)の奈良県東吉野村での捕獲がニホンオオカミの最後の確実な記録とされている。それより後になるが吉野・熊野の山中をくまなく歩きオオカミについての目撃談・伝聞などの話を収集した岸田日出男は、ニホンオオカミの絶滅過程を間近に体験した人の1人なのかもしれない。
以上のように、熊野の森のオオカミは(当然ながら)シカやイノシシなどと食物連鎖を通じて密接な関係があり、熊野一帯の民は、その野生生物としての特性からオオカミは人間や犬より狩猟が得意な動物であるという認識を持っていた。オオカミがいることでシカやイノシシによる耕作地の被害が低減されると理解され、全国のオオカミ信仰と同様に眷属としてのオオカミには獣害防除、ひいては災厄防除の力があると信じられていた。妖怪や魔物から人間を守ったという伝説は、自然界に天敵が見当たらず、人間にとっては有益な動物であるいうことから違和感なく受け入れられて来たように思われる。
オオカミが人間を襲う伝説にはいくつかのパターンがあるようで、「猟の友としてオオカミを飼っていたところある時点で主人を襲う」「送りオオカミは何もしないが、休むときには『休む』と言え、転んではいけない」は一例である。現実世界で野生のオオカミが人間を襲うことはほとんどないが、その少数例を分析するといくつかのパターンが認められ、「飼育下で人なれしたオオカミが人を攻撃するケース」や、「偶然オオカミの前をジョギングしてしまった人が逃げる獲物のようにオオカミに認識され攻撃されたケース」などが存在する。伝説の中のオオカミが現実のオオカミの行動や生態を反映しているようで興味深い。
熊野の森では有史以前から人とオオカミが共存し暮らしていたが、時代と共に森の姿は変わり、オオカミは明治以降のある時点を境にいなくなってしまった。その一方で、自然を守り後世に残そうと自然公園設立運動をし、オオカミに強い興味を抱いた岸田日出男のような人物もいた。
時は流れ、全国の例にもれず紀伊半島でも平成に入ってから森林植生へのシカ被害が顕在化してきた。森林植生の劣化や消失で大変なことが起こっているのは大台ケ原や大台山脈だけではなく、紀伊半島の脊梁山脈である大峯山脈や高野山・護摩壇山、森林開発を逃れ原生林が残された大塔山、その他名もない山々に広く及ぶ。林業における人工林での樹皮剥ぎ、植林地での苗木の食害なども深刻である。岸田日出男をはじめとする当時の人々の努力を思うとき、科学や社会が発展したはずの現代の私たちが自然をどれだけ保護できているのか、忸怩たる思いが湧いてくる。
平成5年(1993)に設立された当協会は、オオカミが絶滅した自然生態系の歪みを修復するため日本へのオオカミ復活(再導入)を訴えてきた。その成果もあり、協会のアンケート調査では1993年に12.5%だった復活賛成者は2009年には反対者を逆転、2012年以降は40%代まで増加した。
「熊野の森オオカミみゅーじあむ」は本日(令和6年3月30日)和歌山県田辺市の世界遺産・熊野本宮大社の裏にある小さな古本屋の一角を借りてオープンした。これまでの当協会の努力や成果をもとに、オオカミ再導入についての普及啓発・情報発信をしていきオオカミ復活への国民の支持を増やすことに尽力していきたい。
オオカミ復活に向けて、皆様のご支援を切にお願いいたします。
熊野の森オオカミみゅーじあむ館長 大槻国彦