ネイチャーポジティブ

近年ネイチャーポジティブという言葉が聞かれるようになりました。8月にオープンした環境省のネイチャーポジティブ・ポータルでは「生物多様性の負(損失)の流れを止めて正(回復)に反転させること」とされています。

ネイチャーポジティブ

2022年の第15回生物多様性条約締約国会議(COP15)で採択された昆明・モントリオール生物多様性枠組(GBF)では「自然を回復軌道に乗せるために、生物多様性の損失を止め、反転させるための緊急の行動をとること」を求めており、日本を含む締約国のネイチャーポジティブへの取り組みの根拠となっています。GBFのアクション2(Target 2)「生態系を回復しよう」には生態系の健全性を回復させる様々な取り組みが記載されており、オオカミなど絶滅した生物種の再導入による生態系の修復はこれらの取り組みの中に含まれます。

生物多様性プラン

日本政府はこの枠組みの実現に向け主体的に取り組んでいく責務があり、環境省では『生物多様性国家戦略2023-2030~ネイチャーポジティブ実現に向けたロードマップ~』を作成しています。行動計画第1章「生態系の健全性の回復」で森林生態系の保全及び復元についての項目がありますが、残念ながらオオカミ再導入についての言及はありません。第2章の行動目標2-5「野生鳥獣との軋轢緩和に向けた取り組みの強化」もシカ、イノシシの生息数増加、分布域拡大、農林水産業への深刻な被害、対策の強化など、従来の延長線上の政策にとどまっています。

https://www.biodic.go.jp/biodiversity/about/initiatives6/files/1_2023-2030text.pdf

日本では明治以降の森林開発や動物の乱獲・駆除の過程でオオカミが失われ、食物連鎖の最高位が欠けた不完全な生態系が残されました。過剰な狩猟圧とその影響により長らく野生動物の個体数が回復しない状態が続きましたが、戦後の高度成長期の社会変化に伴い農山村の過疎・高齢化が進行し野生動物への狩猟圧が低下して、ついに天敵の絶滅の影響が表れシカが歯止めなく増え始めたのです。平成に入り一気に増加したシカによる過剰な採食は森林・草原の植生の劣化や消失を引き起こし、植物に依存する昆虫や鳥類、哺乳類、土壌生態系の生物などの生息が困難になるなど、深刻な生物多様性の低下をもたらしています。

オオカミが存在する健全な生態系では捕食-被食関係を通じた個体数の自然調節が働き、外部からの人間の介入に頼らずとも生態系のバランスが自律的・持続的に保たれます。人間活動の結果オオカミが絶滅した地域では、再導入が生態系の自然調節を復元する有力な手段で、特に島国の日本ではそれが唯一の手段となります。対照的に、狩猟による対策は特定の場所で一時的にシカやイノシシの個体数を減らすことができたとしても生態系それ自体の健全性を回復させたということにはならず、生態系の外部からの力で無理やりその状態をつくり出しただけにすぎません。

GBFのアクション3(Target 3)「陸と海を守ろう」では2030年までに陸と海の30%以上の面積を健全な生態系として保全するという目標(30by30)を掲げており、国立公園など従来の保護区域以外において民間の自然保護の取り組みが行われている場所を自然共生サイト(OECM)として設定することで保護区域の拡大を図ることができるとされています。我が国では自然共生サイトも併せ2024年度時点で陸域面積の21%まで保全区域を拡大できたとしていますが、目標の30%にはまだ遠い状況です。自然共生サイトでの管理を問う意見もあり(※1)、保護区域の拡大はそろそろ限界に近づいているのかもしれません。

ネイチャーポジティブの実現のためには十分な面積の保護区域を確保することとあわせ、生態系の健全性を回復させなくてはいけません。里山生態系では適正な狩猟も自然保護の取り組みに入ります。一方で奥地森林など原生的な状態を理想とする生態系を保護するためには、原則として人間活動の影響を排した中でシカを含む全ての野生生物が生態系内部で自律的にバランスをとって棲息している状態を実現しなければいけません(※2)。オオカミ再導入による食物連鎖の修復、それによる生態系の健全性の回復を生物多様性国家戦略の行動計画に加え早急に取り組んでいくことが必要です。

(※1)吉田正人「保護地域 30by30 目標と OECM」環境情報科学51-4(2022)https://www.jstage.jst.go.jp/article/eis/51/4/51_21/_pdf/-char/ja?utm_source=chatgpt.com
(※2)伝統的なマタギによる狩猟活動は健全な生態系の中で持続的に行われてきたもので、ある程度までの人為は自然保護と両立するものと考えられます。しかし現代の狩猟による野性動物管理はその性質・量のいずれも強度の人為的介入にあたり、狩猟を含んで原生的な状態であるとみなすことはできません。

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