創作民話 狼「末吉」の恩返し [北野太陽]

むかしむかし出羽国「男鹿半島」に、とても臆病な狼の一家がいた。いやこの一家だけではなく狼というものは元来皆臆病なのである。

狼は、元々群れは作らず、家族ごとに暮らし、それぞれに他の家族とも接しないように、また人間様こそ一番に怖い存在なもんで里にも決して下りてはこない。ひっそりと暮らしていたんだ。

その中でもとりわけ臆病なのがこの一家の子狼末吉だった。

たくさんの兄姉と一緒に生まれて来たのだけれど、最後に小さく生まれたので、幸多かれと末吉と名付けられた。

父ちゃんの名前は十(トウ)、母ちゃんの名前は七(ナナ)であった。父ちゃんも母ちゃんも末っ子であって臆病である。

臆病な末っ子と末っ子の父母の間に、さらに末っ子として生まれた末吉ももっぱら臆病者だった。

ある時、人里で「流行り病」が起きて、人が皆バタバタと死んでいったそうな。

人里には野犬が多かった。どうやらその野犬の「狂い病」が人間にも移ったようである。「狂い病」にかかった野犬が人間様を咬み、咬まれた人は「狂い病」となり狂って死に絶える。

あんまりたくさんの人が死んで行くとき、昔の人は「穢れ」を嫌って、その死骸は山に運び埋めた。その埋められた死骸にたくさんの群れを作った野犬たちが集まり掘り返し貪り食うので、また犬の「狂い病」が増えて行くのだった。

さらにその群れの野犬たちが食べ終えていなくなると、今度はキツネやイタチたちが続けて食べに来る。

カラスさえも、皆「狂い病」に罹って行く。

しかし狼たちはとても臆病なので、決して人間の死骸には近づかず、深い山に入り、元気で若いシカや野ウサギなどを追いかけては食べていた。

時には、群れの野犬たちを遠くに見るときもあったけれど、元来狼は臆病だから、ずーっと遠巻きにして、もちろん自分たちの臭いも届かぬように、風下に移動しながら暮らしていた。

末吉は小さい時、鉄砲撃ちのゴン爺さんに助けてもらったことがあった。

ゴン爺さんは鹿撃ちである。鹿の毛皮は侍の鎧や武具の必需品であったし、角や精巣は漢方薬として役立つ。第一百姓からは作物が食い荒らされるのを防げるからと褒めそやされる。だからゴン爺さんは鹿しか撃たない゜。

ある日、末吉が小さい時に、山にある洞穴の家の近くの沢で、流れる小川に末吉が落ちてはまってしまった所をゴン爺さんに拾い上げられて助けてもらったことがあった。

「狼は人に害を及ぼさないからな。おメエは助けでやるぞ」とゴン爺、末吉の目を見てニヤリ。末吉はいつかきっと恩返ししたいと心に誓った。

ある日、ゴン爺さんの家の若嫁さんが三番目の子を身籠っているときに野犬の群れに取り囲まれた。さあ大変だ。

それを見でいだ狼の末吉は「今日こそがオレの恩を返す日だ」と決意して、野犬の群れの風上に廻り、プッと「屁」をこいた。

その屁は「ぷーん」と野犬たちの方へたなびく。

「狂い病」に取りつかれた群れの野犬たちは、一斉に狼の末吉に向かった。

ゴン爺さんの家の若嫁とお腹の子は助かったのだ。

しかし狼の末吉は、とうとう群れの野犬たちに取り囲まれ、骨まで砕かれて果てた。

それを見ていたゴン爺さんは鉄砲をぶっ放すも間に合わなかった。

ゴン爺さんと若嫁さんは、狼の末吉の亡骸を拾い「狼塚」を建てて、ねんごろに弔ったそうな。ゴン爺さんの所に生まれた孫はたまたま「末吉」と名付けられたそうだ。

やがて男鹿半島をも治める佐竹二十万石の殿様は、その話を聞き及び、「狂い病」撲滅のため、百人の鉄砲組を組織し、千人で男鹿の山狩りをし、群れて狂った犬たちを全滅させた。

男鹿の寒風山の麓には、今でも「狼塚」があるという。

あれあれしこだま
ドッと祓い。

おしまい

―解説―

秋田の鹿は、平安時代から室町時代に出羽北部から津軽地方にかけて領した「秋田氏(安倍貞任の後裔)」の時代に一度狩り絶やされた。その後藩政時代となると、秋田佐竹藩によって新たに放たれた鹿が大いに繁殖する。狩り取った記録によれば安永元年(1772年)には二万七千百余りとある。そしてまた狩り絶やされてしまった(小野進「名勝男鹿(昭和7年)」による)。

「秋田おはら節」は獲られる鹿の悲しみを唄い上げる哀愁漂う民謡である。

秋田の代表的名勝「寒風山」には昔、鹿はたくさんいたと在野の著述家、吉田三郎「男鹿風土史(昭和47年)」にも残されている。

筆者(私)は、秋田の男鹿半島には真山・本山という修験の深山もあり、少数ではあるが狼はいたと思いを馳せるのである。現在は、狼はもちろん一頭の鹿もいない。

1732年に長崎に上陸した狂犬病は、1761年には本州最北端の下北半島まで到達している(Wikipedia)。

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